狼と香辛料�㈽ Side Colors㈽ 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)好|循環《じゅんかん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  町の規模は中の下でも、貿易の要《かなめ》になっているかどうかで滞在《たいざい》の楽しさは大きく変化する。  ここは近くに山や森があり、そこから流れる綺麗《き れい》な川や肥沃《ひ よく》な土の恩恵《おんけい》に与《あずか》って、たっぷりの農産物にあふれていた。  作物がよく実ればよい値で売れ、よい値で作物が売れるとよい生活ができ、よい生活ができるといっそうよく作物を作ることができる。  そんな好|循環《じゅんかん》の見本市のような町は、この冬の時期になってもなお様々な品であふれ、それを買い付けに来る商人たちや、旅の途上《とじょう》に寄って補給をする旅人たち、彼らを当て込んで芸を披露《ひ ろう》しに来る旅芸人や説教師などでごった返していた。  市《いち》の立つ町の中心部がそんな連中の熱気で大|騒《さわ》ぎならば、その周辺部は町の生活を支える者たちの喧騒《けんそう》に満ちている。  靴《くつ》や服の仕立て。荷馬車の工房《こうぼう》に両替《りょうがえ》商。旅人たちの必需《ひつじゅ》品であるナイフや剣《けん》を打つ鍛冶《かじ》屋だって大|盛況《せいきょう》だ。  右を見ても左を見ても人、人、人。  しかも、風の具合で漂《ただよ》ってくるのがうまそうな小麦パンの香《かお》りや魚の焼ける匂《にお》いとくれば、浮き足立ってくるのも仕方がない。冷たく乾燥《かんそう》した空気の中、まずいパンと酒だけで何日もすごし、昼も夜も硬《かた》い荷馬車の上で寝起《ね お》きしてきたとなればなおさらだ。  露店《ろ てん》の前を通るたびにねだるのももどかしいのか、御者《ぎょしゃ》台で隣《となり》に座るホロはさっきからずっとロレンスの服の袖《そで》を掴《つか》みっぱなしだった。 「兎《ウサギ》……ナマズ……焼《や》き栗《グリ》……腸詰《ちょうづめ》」  言葉を覚えたての子供のように、目に入る食べ物を片《かた》っ端《ぱし》から呟《つぶや》いていく。  町の露店《ろ てん》は活気に相応《ふさわ》しい品揃《しなぞろ》えのよさで、ホロに金貨を一枚|渡《わた》せば三日と経《た》たずに使い果たしてしまうだろう。  道が込んでいるせいでよそ見をできないロレンスは、それでもホロの呟きのお陰《かげ》で町にどんなものが置かれているかが大体わかってしまっていた。海から少し離《はな》れているせいか、果物類は少ないらしい。逆に肉の種類は実に豊富で、一際《ひときわ》強く袖を引かれたと思ったら、通りがかった店の軒先《のきさき》で丸々と太った立派な豚《ブタ》の丸焼きを焼いている最中だった。  豚の丸焼きは豚の口から肛門《こうもん》まで鉄串《てつぐし》を刺《さ》し、焚《た》き火《び》の上でぐるぐると回しながらその都度《つど》油を塗《ぬ》ってじっくり焼いていく手間のかかる逸品《いっぴん》だ。鉄串を回しては油を塗る店主らしき男は、この寒いのに上半身|裸《はだか》になってなお汗《あせ》をかいている。  その周りには指を咥《くわ》えている子供たちや、景気のよいご馳走《ち そう》に足を止めて見物している旅人もいた。 「……一度でいいから、わっちもあんなもの食べてみたい……」  ロレンスが一緒《いっしょ》に見ているのをこれ幸いと、ホロは哀《あわ》れっぽくそんなことを呟いている。  しかし、ロレンスは体を戻《もど》し、咳払《せきばら》いをしてこう言った。 「俺の記憶《き おく》が確かならば、お前には子豚の丸焼きを進呈《しんてい》したはずなんだがな」  ホロはそれを、手や口や髪《かみ》の毛《け》まで脂《あぶら》だらけにして一人で貪《むさぼ》り食ってしまった。  よもや忘れたわけではあるまい。  ロレンスがそう思っていると、ホロはおもむろに御者《ぎょしゃ》台に座りなおしてこう言った。 「あんなものでは腹が満ちても一時のことじゃ」 「……だからってあれは食えないだろう」  へたをすれば豚はホロよりも重いかもしれない。  まさかそれを食べるならば真の姿を晒《さら》してでも、と言うつもりなのだろうか。  本末転倒《ほんまつてんとう》もいいところだが、こちらを見たホロの顔は馬鹿《ば か》にするような呆《あき》れ顔だった。 「わっちゃあそういうことを言っているのではありんせん」 「じゃあなんだ?」  ロレンスは尋《たず》ねるが、ホロがなにを言いたいのかよくわからない。 「わからんのかや? 商人とは、相手の望むことを把握《は あく》してこそのものではないのかや?」  呆れ顔に、ため息をつくや哀れみすらまぜてくる。  それは馬鹿だあほだとなじられるよりもよほど商人の誇《ほこ》りを傷つけてくる。 「ま、待て」  そこまで言われては黙《だま》っていられない。  豚《ブタ》。豚料理。子豚では満足できないもの。  さっきの言い草からすれば、肉の量ではない。 「ああ」 「うん?」  ようやく気がついたか、とホロが笑顔《え がお》になって小首をかしげてくる。 「豚の皮が食べたりなかったのか?」 「……。う、む?」 「確かに子豚じゃちょっと少ないかもな。しかし、よく焼いた豚の皮か……あれは贅沢《ぜいたく》な食べ物だよな。ぱりぱりで、肉と一緒《いっしょ》に食べるとじゅわりと脂《あぶら》が口の中に広がって、塩を多めに振《ふ》るとなおうまくて……おい」 「ふぁ!」  とろん、とした目で話を聞いていたホロは、慌《あわ》てて口元を拭《ぬぐ》ってそっぽを向く。  乾《かわ》いたパンとかちかちの干し肉、それにニンニクや酢漬《す づ》けのキャベツといった食生活のあとに聞くには罪深い話だ。  ただ、二度も三度も咳払《せきばら》いをしては、汚点《お てん》を拭い去らんとばかりに口元を拭う様から、どうも当たりではなかったらしい。  しかも、フードの下のその顔は、非常に不満そうだ。 「なんだ、違《ちが》ったのか?」 「全然違う。じゃが」  と、ホロはもう一度口元を拭って顎《あご》を引く。 「それはそれでうまそうじゃ……」 「豚の丸焼きを頼《たの》まないと食えないが、二人で頼んでも肉がもったいないからな。貴族様は皮だけ食べて肉は捨てるともいうが」 「ほう」  食べ物の話をするとホロはいつも真剣《しんけん》そのものだ。  ロレンスはつい笑ってしまって、「それで」と言葉を続けた。 「それで、結局なんだったんだ? 子豚じゃ満足できないって」 「む?」 「豚の皮じゃないんだろう? 腸詰《ちょうづめ》か? それとも、茄《ゆ》でた肝《きも》とか? 俺はあまり好きじゃないんだが、肝臓《かんぞう》とかよく見かけるな」  まさか生でそのまま食べたいとか言い出すのではないだろうなと一瞬《いっしゅん》不安に思ってしまう。  元が狼《オオカミ》なのでさもありなんだが、豚の肝を生でくれ、などと店に言ったら異教徒と思われて教会に告発されるかもしれない。  しかし。 「たわけ」  ホロがだしぬけに口にした言葉は、全部を否定するそんなものだった。 「本当にぬしはたわけじゃな」 「飯の話で涎《よだれ》を垂《た》らしている奴《やつ》に言われたくないが……」  言った直後、腿《もも》をつねられる。  ロレンスに食べ物で釣《つ》られては、若干《じゃっかん》の後悔《こうかい》を見せるようなホロだ。  からかいすぎたかと反省していたら、唇《くちびる》を尖《とが》らせて前を睨《にら》むようにしていたホロは、不貞腐《ふ て くさ》れてこう言った。 「いくらわっちでも腹そのものはそんなに大きくありんせん。子豚《こ ブタ》で十分じゃ」  それならば、なにを。さすがにそこまで聞き返せば、ホロに顔を引っ掻《か》かれても文句は言えない。ホロが謎《なぞ》かけをする時は、必ずロレンスにも解くことができる。  そのことを改めて思い出してみれば、すんなりと問題を解くことができた。  すねたように前を向くホロの横顔を見ながら、ロレンスは降参するように静かに笑う。 「食べきれないくらいのご馳走《ち そう》を、二人で一緒《いっしょ》にだって?」  ホロはちらりとこちらを見てから、一転してはにかむように笑う。  照れ笑いにも見えるそれは、ずっと腕《うで》の中で抱《だ》きしめていたくなるようなもの。  狼《オオカミ》は、寂《さび》しがりなのだ。 「じゃから、な?」  今晩は食べきれないくらいのご馳走を?  笑うと少し牙《きば》が覗《のぞ》くホロの口。ロレンスは見てはいけないものを見たような気がして、少し慌《あわ》てて前を向く。ホロの笑顔《え がお》を消したくはないし、その提案はとても魅力《みりょく》的。  しかし、その貪欲《どんよく》さは商人の敵なのだ。  楽しい食事と楽しくない支払《し はら》い。たまにはそのくらいの気前の良さを見せてやってもいいではないかという思いと、それが癖《くせ》になれば大変なことになるという思い。  自分は卑《いや》しいのか? いやいや商人として正しいはずだ。  そんなせめぎ合いに、ロレンスは手綱《た づな》をぎりりと音を立てるくらいに握《にぎ》り締《し》めてしまう。  そして、ふと気がついた。  隣《となり》にいるホロが、体を折って笑いを堪《こら》えていることに。 「……」  尻尾《しっぽ》がばさばさと苦しそうに揺《ゆ》れている。  ロレンスが怒《おこ》って前を向くと、ホロはついに吹《ふ》き出して笑い出す。  騒《さわ》がしい町の中、娘《むすめ》が一人|御者《ぎょしゃ》台の上で笑っていたって誰《だれ》も気にしない。  だから自分も気にしない。気にしてなどいない。  ロレンスは自分に言い聞かせて徹底《てってい》的に無視。  ただ、そんな振《ふ》る舞《ま》いそれ自体がホロを喜ばせるものであることはもちろんわかっている。  ロレンスの懊悩《おうのう》をひとしきり笑ったあと、ホロは口元ならぬ目元を拭《ぬぐ》ってから、こう言ったのだった。 「ごちそうさま」 「どういたしまして」  真顔で、答えてやった。 「え、部屋がない?」  一階がちょっとした軽食を出す食堂になっていて、夕暮れを前にしてすでに大賑《おおにぎ》わいだった。  嫌《いや》な予感はしたものの、宿の主《あるじ》は分厚い台帳を手に、申し訳なさそうに頭を掻《か》くだけだ。 「ここしばらく人の出入りが激しくて。すみませんねえ……」 「ということは、他《ほか》の宿も?」 「よそさんも同じでしょうなあ。こういう時くらいは組合の規則を緩《ゆる》めてくれればいいのにと思いますが……」  部屋に客を詰《つ》め込めば詰め込むほど儲《もう》かる宿屋には、大抵《たいてい》人数制限が設けられている。  部屋にたくさん詰め込みすぎた挙句《あげく》、建物が倒壊《とうかい》したり危険な病が蔓延《まんえん》したりといったことが本当にある。それに犯罪者や占《うらな》い師といった不埒《ふ らち》な輩《やから》も紛《まぎ》れ込みやすくなるため、そのあたりの規制は特に厳しくなっている。  そして、組合員が組合に逆らうことは王に逆らうことと同じ。  宿の主は分厚い台帳を閉じて、申し訳程度にこんなことを言ってくる。 「お食事なら出せますが」 「また来ます」  挨拶《あいさつ》代わりに無言でうなずかれたのは、向こうもこんなやり取りを何度も繰《く》り返していて食傷気味だからだろう。騒《さわ》いだところで部屋があくわけでもなく、ロレンスは荷馬車に戻《もど》り、ホロに向かって無言で首を横に振る。  旅にだいぶ慣れてきたホロは、さもありなん、とばかりにうなずいた。  しかし、フードの下では若干《じゃっかん》顔が強張《こわば》り気味。  旅に慣れてきたからこそ、宿が取れず町の外で野宿、という可能性が脳裏をよぎるのだ。  それを避《さ》けるには、馬車を停《と》められる場所を見つけて寝具《しんぐ》を借りてくるほかない。馬屋、商会、教会くらいだろうか。  ただ、それも大きい町ならばいざ知らず、この規模の町では期待できるかどうか。  市場が閉まり、日が暮れてもなお馬車を停めて眠《ねむ》る場所を見つけられなければ、ホロが予想しているとおりいったん町を出なければならない。自分ひとりならばそれでも構わないのだが、ホロが一緒《いっしょ》だと面倒《めんどう》なことになる。  この様子だと町の外で野宿しようと腹をくくる旅人も多そうだし、そうなると概《おおむ》ね酒盛りが始まってしまう。禁欲的に旅を続けてきた挙句《あげく》に酒に酔った者たちが集まると、それはそれは厄介《やっかい》な連中の出来上がりだ。そこにホロのような娘《むすめ》がいればどうなるか、考えるだけでうんざりしてしまう。馬鹿《ば か 》騒《さわ》ぎは元気な時にこそ面白《おもしろ》いもの。旅の疲《つか》れがある時は弱い酒をゆっくりと飲んで、温かい食事を軽く取ってぐっすり眠《ねむ》るのが一番だ。  一縷《いちる》の望みをかけて、宿が軒《のき》を連ねる道を歩いていく。  二|軒《けん》目も三軒目も当たり前のように断られ、四軒目に至っては先客がちょうど断られていた。  荷馬車に戻《もど》ると、ホロはついに諦《あきら》めたらしく、荷馬車の上で靴《くつ》の紐《ひも》を緩《ゆる》めたり腰帯《こしおび》を緩めたりしていた。  五軒目に行ったところで結果は同じだろう。  それならば、念のため、早めに馬車を停《と》められる場所を探したほうがいい。  屋根があるのとないのとでは段違《だんちが》いになる。  手綱《た づな》を引いて馬の向きを変え、そろそろ茜《あかね》色に染まり始めた空の下、一日の最後の仕事に奔走《ほんそう》する者たちの間を縫《ぬ》って進んでいく。こういう時、必ず帰る家のある彼らが腹が立つほど羨《うらや》ましく、また一晩の宿すらない自分の身が惨《みじ》めに思えてくる。  そんな胸中を見|抜《ぬ》かれたのかどうか、ホロがわざとらしく身を寄せてきた。  だらしなくあちこち緩めてすっかりくつろぎの体勢だが、確かに隣《となり》にはホロがいる。  ロレンスがホロの頭をフード越《ご》しに撫《な》でて、ホロがくすぐったそうに笑った。  旅の途中《とちゅう》の何気《なにげ》ないひととき。まさしく、そんな折のことだった。 「来週あたりが食べ頃《ごろ》だってな」  ふと、荷馬車の横を歩く者たちの声が聞こえてきた。  道はごった返していて荷馬車も徒歩も変わらないので、彼らの言葉が聞くでもなく耳に入ってきた。顔や腕《うで》に白い粉をつけているところから、休憩《きゅうけい》中のパン職人たちだろうと推測《すいそく》できる。  どうやら、道沿いにある店の話題らしかった。 「ああ、オーム商会の若|旦那《だんな》が言ってたあれか。しかし、親方もよくあんな奴《やつ》の仕事を受けるもんだ。俺たちの焼いたパンにあんなもの載《の》せろだなんて馬鹿にしてやがるのか?」 「そう言うなって。破格の手間賃をくれるうえに最上級の小麦パンをわんさと買ってくれるんだからな。お前だってたまにはまじりっけなしの小麦でパンをこねたいだろう?」 「そりゃあ、そうだ……だがなあ……」  一人はよほど商会の若旦那の注文が嫌《いや》らしい。職人の中でももっとも誇《ほこ》り高いと噂《うわさ》されるのが彼らパン職人だから、きっと彼らの職業|倫理《りんり》にもとるような注文なのだろう。  職人になるには厳しい徒弟期間を経て、親方試験に合格しなければならない。粉の目方の量り方をはじめ、巻きパンなど難しい技術の必要なパンの作り方に習熟しなければならない。  そんな彼らだから仕事には格別の誇《ほこ》りを持って臨《のぞ》んでいるのだろう。  それにしても一体なにを載《の》せて焼こうとしているのか。  ロレンスに寄りかかったままじっとしているホロも、その耳でしっかり二人の会話を聞いているのがよくわかる。  ロレンスは、彼らの視線の先、道に軒《のき》を連ねる建物に目を凝《こ》らした。  蝋燭《ろうそく》屋、油屋、針屋、ボタン屋と並んでいる。  食べられそうなものを扱《あつか》っているのは油屋くらいだろうが、よもや油の塊《かたまり》を載せるわけでもあるまい。  そう思っていたら、視界に入ったそれ。  薬屋。  パン職人と思《おぼ》しき彼らのうちの一人が、決定的な一言を放った。 「俺たちのパンはそのままが一番おいしいに決まってるんだ。あんなものを載せるのは間違《ま ちが》っているはずだ。大体、そもそも値段が高すぎるんだよ。はちみつに漬《つ》け込んだら金にでも変わるっていうのか? おかしな話だ!」 「はは。なんだお前、自分が食べられないから文句言っているだけかよ」 「ち、違《ちげ》えよ。興味なんかないね。桃《モモ》のはちみつ漬けなんかに!」  ロレンスがひょいと視線を前に戻《もど》したのは、ホロの耳が針で突《つ》ついたようにぴんと張ったからだ。その勢いでフードに穴があいたってロレンスは驚《おどろ》かなかっただろう。  ホロはじっとしたまま動かない。  ただ、見上げた自制心というよりも、実際はその逆で動けないのだろう。  尻尾《しっぽ》が、ローブの下で火をつけた藁《わら》のように苦しそうに動いている。見栄《みえ》と理性と欲望とがせめぎ合って、とんでもない綱引《つなひ》きを演じているに違いない。  パン職人たちはその後もパンについての話題を続けながら、荷馬車より速く歩いていってしまう。ロレンスは彼らを見送ってから、隣《となり》のホロをちらりと横目で盗《ぬす》み見る。  このまま何事もなかったふりをしてしまおうか。  一瞬《いっしゅん》そんなことも考えてみたが、じっとしたままねだってこないホロは、ねだってこないがゆえに恐《おそ》ろしい。  駆《か》け引《ひ》き上手だとすれば、まさしくここでその真価を発揮している。  相手がなにかを言ってくれば否定も誤魔化《ご ま か》しもできる。  しかし、なにもなければ、手の施《ほどこ》しようがない。 「こ、今晩は冷えそうだな」  ロレンスは苦《くる》し紛《まぎ》れに撒《ま》き餌《え》を撒いてみたが、ホロは微動《びどう》だにしない。  本気なのだ。  豚《ブタ》の皮の料理の話をしたあとのこと。せっかく町に来たのに寒空の下で毛布に包《くる》まりながらまた苦いパンとまずい酒で夜をすごすとなれば、ホロでなくたって必死になるだろう。  せめて食べ物くらいは。  それはロレンスもそうは思うが、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けとなればとにかく値段が張る。  一玉でトレニー銀貨十枚? 二十枚?  桃一つに馬鹿《ば か》げた値段だとは思うが、払《はら》えないこともない、というのが本当のところ。  財布《さいふ》的にも、それで喜んでくれるだろうホロの笑顔《え がお》的にも。  ホロの沈黙《ちんもく》はいつものからかいやいたずらではない。  ロレンスは、結局、ホロを取ったのだった。 「……仕方ない。薬屋で体があったまりそうなものを買っておくか」  ホロはじっとしたまま動かない。  動かないが、耳と尻尾《しっぽ》が子犬のように喜んでいたのだった。  薬屋は文字どおり薬と呼ばれるものも売っているが、実際は色々|商《あきな》っている。  町の中では靴《くつ》屋は靴を、服屋は服を売るように、基本的に組合同士が各々《おのおの》の領分を定めてそれだけを扱《あつか》って商いをする。だから、服屋は仕立てをしてはならないし、靴屋は靴の修繕《しゅうぜん》をしてはならない。油屋はパンを売ってはならないし、魚屋は肉を売ってはならない。  この論理でいくと薬屋は薬しか売れないのだが、店に多彩《た さい》な商品を並べればそれだけたくさんの客が来て色々買ってくれることになるのを、商人たちはよく知っている。  というわけで、彼らは知恵《ちえ》を絞《しぼ》って屁理屈《へりくつ》をこねては様々な品を自分たちの領分に引き込んでしまったのだ。  その中でもっとも他《ほか》の店と操《も》めるのが、他ならぬ香辛料《こうしんりょう》。彼ら薬商は香辛料は汗《あせ》が出たり熱が下がったりと様々な効果をもたらすので薬だと言い張っている。  そして、その論理の延長で、健康に良さそうなものも薬に違《ちが》いない、ということではちみつも主に彼らが扱う商品だ。  はちみつを扱えるのは、他には蜜蝋《みつろう》を扱う蝋燭《ろうそく》屋だけ。  金で買えるものならなんでも扱える行商人には理解できない縄張《なわば》り争いだが、そのせいで薬屋には各種のはちみつ漬《づ》けがずらりと並んでいる。  スモモ、梨《ナシ》、木苺《キイチゴ》、蕪《カブ》、人参《ニンジン》、豚、牛、兎《ウサギ》、羊、鯉《コイ》、カマス、とすぐ思いつくだけでもこのくらいはある。  食べ物を長期間保存するには、塩に漬けるか酢《す》に漬けるか氷漬けにするか、あるいははちみつに漬けるかしかない。長い冬の終わりがまだまだ見えないこの時期は、この手の保存食がもっとも高くなる時期だ。素っ気ない走り書きがされているだけの樽《たる》や瓶《かめ》の中身には、どれもいい値段がついている。  そして、そんな商品が並ぶ中で、一際《ひときわ》異彩《い さい》を放つものがある。  店の一番奥、店主の真後ろに置かれた、胡椒《コショウ》やサフラン、それに砂糖の壺《つぼ》が置かれた横に鎮座《ちんぎ》する、飴色《あめいろ》の瓶《かめ》。  ホロの視線は、店に入るやそこに釘付《くぎづ》けだった。 「いらっしゃい」  髭《ひげ》の店主の視線は、ロレンスからホロに。  ホロがなにに目を奪《うば》われているかはすぐにわかっただろうから、次に見るべきはその身なり。  伸《の》びた眉毛《まゆげ》が片方だけ少しつり上がったのは、娘《むすめ》のほうの身なりは良さそうだが、男のほうがそうでもない、と思ったからだろう。  買い物をしたとしてもさほど高い品ではない、と判断したのかどうか、店主は「なにをお探しで?」と気のないふうに聞いてくる。 「体が温まるものが欲しくて。生姜《ショウガ》か……」 「生姜でしたら、そちらの棚《たな》に」  生姜に次ぐ「あるいは」という言葉はロレンスの喉《のど》の奥で立ち消えることに。その程度の品、勝手に買ってさっさと帰れ、ということだろう。ロレンスは言われたとおりの棚で生姜を吟味《ぎんみ》して、はちみつ漬《づ》けを買うことにした。安いが、することもない夜に毛布に包まりながら食べるにはいいものだ。  ただ、ホロがちらちらと視線を向けてくるのにも気がついている。  あんな話を聞いてからわざわざこんな場所に来たのだから、よもや期待を持たせるだけで終わるわけはあるまい? と。  もちろんロレンスもそのつもりだ。  食べ物でホロの歓心《かんしん》を買うのはあまりにも安易に過ぎるし、ホロ自身もたまに嫌《いや》がる節がある。  しかし、それが桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けとなればまた話は別。  これまで何度か話題に上ったものの、結局買えたことはなかった。値段が高いということもあるし、単純に売っていないことのほうが多い。  だからだろう。ホロも今だけは食べ物で釣《つ》られる気をありありと漂《ただよ》わせている。  そわそわとするホロの横を通り過ぎ、店主に生姜のはちみつ漬けを幾らか小分けしてもらって、代金を支払《し はら》うちょうどその時。  ロレンスはおもむろに交渉《こうしょう》を切り出そうとした。  しかし。 「はい。十リュートね。毎度あり」  ロレンスは代金を支払って、無言で商品を受け取ってしまう。ホロが後ろできょとんとしている様が気配だけで察せられた。  目は、店主の向こうに置かれた飴色《あめいろ》の瓶《かめ》につけられた札の数字に釘付《くぎづ》けになっている。  一玉一リュミオーネ。トレニー銀貨で三十五枚前後。  見|間違《ま ちが》いかと目をこすってみるが、確かにそう書かれている。黄金の桃とはよく言ったものだが、それにしたって高い。ロレンスがなにを見ているのか、たっぷりと間をあけて確認《かくにん》したあと、店主はわざとらしくこう言った。 「おや、お目が高い。今年の桃はとても甘いうえに身がしっかりとしていてね。はちみつもリューディンヒルド伯《はく》の御料地の森で取れた一級のはちみつだ。一玉一リュミオーネ。もう買い手が何人もいましてね。残るは三玉。いかがです?」  どうせ買えないだろうがね、と顔には書いてある。大きな商会や裕福《ゆうふく》な都市貴族とは無縁《む えん》そうなこんな町で、桃のはちみつ漬けにこんな値段をつけるとは確かに大それたことに違いない。客相手の商売でこんなにも居丈高《い たけだか》なのはその自信の表れだろう。  ただ、ロレンスも大きな町でそれなりの取引を乗り越《こ》えてきた自信がある。若い金のない行商人|扱《あつか》いをされ、少しむっとして財布《さいふ》に手を伸《の》ばそうとしてしまう。  それがはたと止まったのは、わずかな見栄《みえ》のために大金を使いたくないとか、そういったことではない。単純に、そこに貨幣《か へい》が何枚入っているかを、神よりもよく知っているからだ。  ここで一リュミオーネも使うと、おそらくこの先旅が立ち行かなくなってしまう。財産を全《すべ》て財布に詰《つ》め込んでおく馬鹿《ばか》な商人はいないように、ロレンスも、実際に持ち歩いている金はさほどでもないのだ。  ホロの笑顔《え がお》の前に、現実が立ちふさがる。  気がついたら、首を横に振《ふ》っていた。 「はは。私には過ぎた買い物です」 「左様ですか? まあ、気が変わったらいつでもどうぞ」  ロレンスが背を向けて店を出ると、ホロはおとなしくついてくる。非難の一言すらないのが余計に恐《おそ》ろしい。  まるで暗闇《くらやみ》の森の中、自分の足音と合わせてあとをつけてくる狼《オオカミ》のようだ。  期待させておいて、結局買わなかった。  それはあの御者《ぎょしゃ》台の上で知らぬふりを決め込むよりもたちが悪い。  こちらから謝ればまだしも傷口が小さくすむだろうか。  そう思い、覚悟《かくご》を決めて振り向いた。 「……」  言葉が出なかったのは、ホロが怒《いか》り狂《くる》っていたからではない。  その逆だった。 「……む? どうしたかや?」  言葉に覇気《はき》はなく、目に力はない。  これで顔色が悪ければ病気を疑うところだ。 「い、いや……」 「そうかや。なら、早く乗ってくりゃれ。ぬしの席は奥じゃろう?」 「あ、ああ……」  ロレンスが言われるままに御者《ぎょしゃ》台に乗ると、ホロもすぐに乗ってきて、奥に詰《つ》めたロレンスの隣《となり》にちょこんと座る。  怒《おこ》っている時はその華奢《きゃしゃ》な体が何倍にも膨《ふく》れ上がって見えるのなら、意気|消沈《しょうちん》している時はその逆だ。よっぽどというその言葉がぴったりなほど、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けが食べたかったのだろう。  どこまで食い意地が張っているんだ、と笑うことなどできはしない。冷たく乾燥《かんそう》した空気の中を、まずいパンとまずい酒で乗りきってきたあとのこと。道に迷った王の一行《いっこう》に出した一杯《いっぱい》のスープが、あふれんばかりの金銀財宝に変わった話など枚挙に暇《いとま》がない。  ホロは桃のはちみつ漬けを心の底から楽しみにしていたに違《ちが》いない。  しかも、放心しきったように遠い目をしているだけで、ロレンスのことをなじりもしない。  ホロがそうしないのは、桃のはちみつ漬けの高価さと、ロレンスの懐具《ふところ》合の両方を知っているからだ。  ロレンスが隣をもう一度見ると、ホロは荷馬車の揺《ゆ》れに合わせてゆらゆらと揺れている。茫然自失《ぼうぜんじしつ》といった体《てい》で、おもむろに抱《だ》きしめたところで気づかないかもしれない。  ぽく、ぽく、と荷馬車は進む。  今晩はおそらく野宿になる。旅の間|硬《かた》い荷馬車の上で我慢《が まん》できるのは、町に着いたら柔《やわ》らかいベッドとたっぷり重ねた毛布の下に潜《もぐ》り込めるという期待があるからに他《ほか》ならない。 「……」  ロレンスは顎鬚《あごひげ》を痛いくらいにつまんで、目を閉じる。  引き返して、財布《さいふ》の中身を全《すべ》て薬屋の主人に叩《たた》きつけてくるべきだろうか。  しかし、そう考えなおしてみてもなおロレンスの手は手綱《た づな》を動かさない。  一玉一リュミオーネは、いくらなんでも高すぎる。  それを買ったら旅が立ち行かなくなるという理由の他にも、物には相応の値段というものがあるはずだ、という思いもある。  究極の選択《せんたく》を前にしたガマガエルのように、ロレンスは脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませながら悩《なや》んでいた。  肩《かた》を落とした華奢《きゃしゃ》なホロは、一日だって寒空の下の野宿に耐《た》えられそうもない。そんなホロが笑顔《え がお》と元気を取り戻《もど》すとしたら、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けをおいしそうに食べるその瞬間《しゅんかん》しかあり得ない。  やはり、買おう。  ロレンスは決心して手綱を引っ張った。 「?」  ホロがそれに気がついて、顔を上げてロレンスのことを見る。  一玉一リュミオーネ。  高くはあるが、ホロと比べたらいかほどのものか。  しかも、残るは三玉だと言っていた。早く買いに行かなければなくなってしまうかもしれない。パンに載《の》せて焼こうなどという酔狂《すいきょう》をする商会の若|旦那《だんな》がいるくらい、景気のいい町なのだ。売り切れるということもあり得ない話ではない。  馬がいなないて足を止め、人ごみの中向きを変えようとした、その瞬間だった。 「景気の、いい?」  ロレンスの頭の中で、妙《みょう》な引《ひ》っ掛《か》かりができた。  市場が賑《にぎ》わい、旅人が訪れ、全《すべ》ての商《あきな》いがうまく回っているように見えるこの町だが、町の裕福《ゆうふく》さは必ずその規模に比例する。  だとすれば、とロレンスは顎鬚を撫《な》でながら考えを進めていく。かち、かち、と気持ちよいくらいになにかが嵌《は》まっていく。  それが完全な形になった時、ロレンスは手綱を再度|捌《さば》いて、向きを変えかけた荷馬車を元に戻す。  旅人らしい男が怒鳴《どな》ってくるが、ロレンスは商人の仮面で申し訳なさそうに謝っておく。  突然《とつぜん》の様子の変化に、ホロがこちらを窺《うかが》ってくる。  ロレンスは、短くこう言った。 「ちょっと、商会に」 「……ふむ。え?」  腑《ふ》に落ちかけたそれは、疑問|符《ふ》となってホロの口から飛び出してきた。  しかし、ロレンスはそれに返事をせず荷馬車を進めていった。  桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けを買うには金さえあればよく、ないのなら稼《かせ》げばいい。  目指すは商会。それも、あのパン職人たちが話していた、オーム商会とやらだった。  物は金がなければ売れはしない。  だとすれば、物が売れているところには金が流れ込んでいる。  そんな単純な発想でロレンスがやってきた商会の店構えは、どこにでもある普通《ふ つう》の商会でさして大きな店でもなく、町の規模に見合ったものだった。  ただ、なんらかの理由で今は金が唸《うな》っているであろうことが、店の前に来てすぐにわかった。  空は茜《あかね》色でそろそろ職人たちが帰途《きと》につき始めている時刻だというのに、そこは凄《すさ》まじい喧騒《けんそう》だったのだから。  忙《いそが》しく立ち回る者たちは疲《つか》れと活気で目をぎらぎらとさせ、帳簿《ちょうぼ》を手に走り回っている商会の者だろう男は声ががらがらに嗄《しゃが》れていた。  そこで取り扱《あつか》われているものは麦でも肉でも魚でもなく、毛皮でもなければ宝石でもなかった。  木。あるいは鉄。  それらを加工した、なんらかの部品や、それらを加工するための工具。  商会の荷揚《に あ 》げ場に文字どおり山積みにされているのはそんな品々だった。 「……なんじゃ、これは」  ホロが呟《つぶや》いた。  活気にあふれる商会はいくつも見てきたが、町の中でそこだけが異様にわいているとなれば話は別。他《ほか》の商会はそろそろ店じまいかという頃合《ころあい》なのに、そこはここからいよいよ本番だ、とでも言わんばかりだった。 「資材、ということはどこかでなにかの建築の真っ最中だな。見張り台? いや、これは……」  諸々《もろもろ》の部品はそれだけではまったくなんの材料かわからない。それでも、奥のほうに特徴《とくちょう》的なものがどんと置かれていたので、すぐ思い当たった。  そして、なるほど景気がよいはずだ、と思わず笑ってしまう。  商会は商品を右から左に流して儲《もう》ける場所なので、なにか大きな建築物の物資の調達を任された時が最大の稼《かせ》ぎ時《どき》になる。職人に発注し、資材を揃《そろ》え、自分のところには一晩と商品を置かず次々に利ざやを抜《ぬ》いていく。  若|旦那《だんな》とやらが、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けを最高級の小麦パンに載《の》せて焼け、とパン屋に注文する気持ちもわからなくはない。きっと、黄金のわく泉を掘《ほ》り当てた気分に違《ちが》いない。  我に返ったホロが訝《いぶか》しげにこちらを窺《うかが》っているのがわかる。この商会が異様に景気がよいのはわかったが、それで一体どうするつもりなのだ、と。  ロレンスは、「さて」と呟《つぶや》いて荷馬車を降りると、そんなオーム商会の中に悠然《ゆうぜん》と入っていく。  忙《いそが》しすぎて、ロレンスのようなよそ者が入ったところで誰《だれ》も気にも留めない。こういうところではさも当然のように振《ふ》る舞《ま》うのが定石《じょうせき》といえよう。  その上で、責任者と思《おぼ》しき者を見つけたら、おもむろにこう声をかけるのだ。 「こんにちは。人手が足りないからと言われて、荷馬車を引いてきたのですが」  その商人は、もう何日もろくに眠《ねむ》っていないような顔で、目だけがぎらついている。  手には毛羽立った羽根ペンと、熱気でよれよれになった帳簿《ちょうぼ》を持っていて、右目が常に半分だけ閉じている。  ロレンスはじっと笑顔《え がお》で相手の言葉を待つ。  時間が止まっていたかのような商会の男は、ふと我に返ったらしく、こう言った。 「あ、ああ。待ってたよ。すぐに荷を運んでくれ。荷馬車はどれだ?」  かすれて聞き取りづらい言葉だが、ロレンスは聞き返さずに、自分の荷馬車を指さした。 「なに、あれ?」  頓狂《とんきょう》な声で聞き返されるが、慌《あわ》てることはない。  ゆっくりと、こう言葉を返す。 「たくさん積めたほうがいいかと思いまして」 「うー、あんなんじゃ足が遅《おそ》いだろうに……誰だ話を通した奴《やつ》は……。まあいい、なんでもいいから、積めるだけ積んで出発してくれ。今すぐにだ」  忙しさは全《すべ》ての感覚を麻痺《まひ》させる。  こういう状況《じょうきょう》になると、誰がどんな仕事を請《う》け負ってどこの誰が手伝いに来ているかなど、把握《は あく》している者も把握しようとする者もいないことをロレンスはよく知っている。  だから、図々《ずうずう》しくこう聞いてやる。 「えっと、急な話でしたのでよくわからなくて。誰から賃金を受け取れば? 行き先は?」  男は、欠伸《あくび》をしたら口に飛び込んできた蛙《カエル》を、そのままうっかり飲み込んでしまったかのような顔をして、ごくりと言葉を飲み込んだ。  多分、罵倒《ば とう》か驚《おどろ》きの言葉だったのだろうが、せっかくの助《すけ》っ人《と》を逃《のが》してはならないと疲《つか》れきった頭で即座《そくざ》に考えたのだろう。荷揚《に あ 》げ場の隅《すみ》に置かれた机の上で羊皮紙と格闘《かくとう》している男を指差して、投げ出すように言った。 「あの男に全《すべ》て聞いてくれ」  ロレンスはそちらを見て、いかにも愚図《ぐ ず 》な商人のように、頭を掻《か》いて礼を言う。 「畏《かしこ》まりました」  男は、もうその瞬間《しゅんかん》にはロレンスのことなど忘れてしまったかのように、荷揚げ人足たちに指示を出す。  ロレンスは悠々《ゆうゆう》と、仕事を貰《もら》いに机のほうに歩いていった。  北の大地にこんな昔話がある。  ある村の男たちは大地の彼方《かなた》までを見通し、雲の向こうを飛ぶ鳥でさえ弓で射落とすことができた。その村の女たちはどんなに寒くても穏《おだ》やかな笑顔《え がお》を絶やすことがなく、その手は寝《ね》ている間でも糸を紡《つむ》ぎ続けることができた。  そんな彼らの村に、ある日見知らぬ旅人が来て、彼らに一宿一飯の恩返しとして読み書きを教えた。彼らはそれまで文字を知らず、村の歴史や大事なことは全て口承されていたのだ。そのため、不慮《ふ りょ》の事故や病で誰《だれ》かが死ぬと、失われるものがとても多かった。  彼らは旅人に感謝した。  そして、旅人が再び旅に出たあと、彼らは気がつくのだ。  男はもはや空の彼方まで見通すことができず、女は疲《つか》れやすくなって仕事を怠《なま》けるようになった。読み書きができない子供たちだけが、これまでどおりだった。  そんな昔話を思い出したのは、机の上で今にも眠《ねむ》りこけそうになりながら、必死に文字を追う若い商人の有様《ありさま》があまりにも気の毒だったから。  文字という足枷《あしかせ》をはめられ、首輪までつけられている、という表現がしっくりくる。  もっとも、地獄《じ ごく》の悪魔《あくま》だってもう少し手加減するだろう。  ロレンスは、そんなことを思わざるを得なかった。 「失礼」  しかし、金儲《かねもう》けとなると話は別。  声をかけると、若い商人はのっそりと熊《クマ》のようにこちらを向く。 「……はい?」 「あちらの責任者の方に、こちらで荷物の行き先と、賃金を聞くようにと言われたのですが」  嘘《うそ》はついていない。全てを語っていないだけ。  若い商人はロレンスの指差すほうを見て、それから再びロレンスの顔を見て、しばらくぼんやりとする。  手元のペンは止まらない。  ちょっとした曲芸だ。 「あ、ああー……はい、はい。ええーっと……」  話している間にも、次々に机の上には紙や羊皮紙が溜《た》まっていく。  この商会を通過する資材の数々なのだろうが、ものすごい数だった。 「行き先は……ルワイ村の北……と言ってわかります? 木札が立っているはずなので大丈夫《だいじょうぶ》だとは思いますが……そこに、あそこの荷を……積んでください。どれでもいいです。運べるだけ、運べるものから……」  喋《しゃべ》っていて気が緩《ゆる》んだのか、声量が落ちるとともに瞼《まぶた》が閉じていく。 「手間賃は?」  ロレンスが肩《かた》を叩《たた》いて声をかけると、びくりと体をすくませて目を覚ます。 「手間賃? ああ、そうでした……ええと……荷物に札がついてますので……持って帰ってきてください。概《おおむ》ね、札一枚でトレニー銀貨一枚を、それと……交換《こうかん》、です……」  そのままぐにゃぐにゃと口の中で何事かを呟《つぶや》いて、眠《ねむ》りこけてしまう。  きっと仕事をしないとまずいことになるのだろうが、起こすのも気の毒でそのまま放置してロレンスは歩き出す。  と、三歩出たところで、くるりと振《ふ》り向いて突《つ》っ伏《ぷ》すように眠りこけている若い商人の肩を乱暴に揺《ゆ》すった。  この商会にやってきた、もう一つの目的を忘れていた。 「ちょっと、起きてください。ちょっと」 「は、ふぁい……」 「急な仕事だったので宿が取れなかったのですが、商会の部屋を借りられませんか?」  こういう場所では仮眠《か みん》用の部屋が一つか二つあるはずだ。  ロレンスが尋《たず》ねると、眠気でうつらうつらしているのか、それともうなずいているのか判別の難しい仕草をしたあとに、商会の奥を指差してこんな返事が返ってきた。 「奥に……女将《おかみ》さんがいるので……言ってください……。食事も、多分、用意を……」 「ありがとうございます」  言葉を遮《さえぎ》って、ロレンスは彼の肩を叩いてから側《そば》を離《はな》れた。  礼を込めてせっかく起こしてやったというのに、またむにゃむにゃと眠ってしまったが知ったことではない。  ロレンスはホロがぽつねんと一人いる荷馬車に駆《か》け寄って、こう言った。 「宿が取れた」  フードの下の琥珀《こ はく》色の瞳《ひとみ》には、ロレンスの荒《あら》っぽいやり方に対する賞賛と呆《あき》れが見て取れた。  それからすぐに視線をそらして、もう一度向けてくるのは無言の質問だ。  一体なにをするつもりなのか、と。 「仕事に行ってくる」 「仕事? あ、ぬしは」  眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せたホロはすぐに答えにたどり着くが、ロレンスはそれ以上相手をしない。  ホロを急《せ》かして荷馬車から降ろす。 「一晩中この騒《さわ》ぎだろうから、ちょっとうるさいかもしれないが」  左手で馬の手綱《た づな》を引っ張って荷馬車を荷揚《に あ 》げ場に入れる。  こんな騒ぎでは誰《だれ》かに頼《たの》んでも連れていってくれないだろうが、入れてしまえば中の連中が勝手にやってくれる。案の定、空荷の荷馬車を見つけた荷揚げ人足が一斉《いっせい》に集まってきて、あっという間に荷積みを終えてしまう。  ホロは目を丸くしてそんな様を見つめていたが、その顔は徐々《じょじょ》に不機嫌《ふ き げん》そうなものに変わっていく。  じっとこちらを見たうえで、黙《だま》ったまま動かない。 「少し小銭《こ ぜに》を稼《かせ》いでくる。宿の確保も兼《か》ねていたが……」  その手段がどんなものだったかは、とっくに披露《ひ ろう》ずみ。  このままいけば町の外で野宿するのが確実だっただろうから、疲《つか》れの出ているホロにはせめて一|泊《ぱく》だけでも屋根のある場所にしてやりたかった。 「明日のことは明日考えよう。今日はとりあえず……あ、おい」  説明の途中《とちゅう》で、ホロは勝手に商会の奥に入っていってしまう。  度胸も口もロレンスと対等かそれ以上なので、うまく部屋をあてがってもらえるだろう。 「やれやれ」  ロレンスがため息まじりに呟《つぶや》くと、件《くだん》の女将《おかみ》と思《おぼ》しき女性に話しかけていたホロは、ちらりとこちらを振《ふ》り向いた。  なにか言いたそうに口を動かしかけて、結局開かない。  多分、罵倒《ば とう》かなにかだったのだろう。  たわけ。  同じ言葉であっても、状況《じょうきょう》や相手の表情でその意味合いはまったく異なってくる。  ホロは女将に案内され、一人商会の奥に消える。  ホロのことをいつも意地っ張りだと笑ってしまうが、それはこっちも大して変わらないらしい。ホロのみならずロレンス自身も疲れているのに、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けを買うために休みも入れず一仕事しようというのだから。  きっと、ロレンスが謝ればたやすく諦《あきら》めたであろう桃のはちみつ漬けを買うために。  ロレンスは御者《ぎょしゃ》台に戻り、積荷《つみに》をたっぷり載《の》せた荷馬車を出発させた。倒錯した遊びをしているような、そんなくすぐったさがある。  いや、実際にそうなのだと思ったのは、荷揚《に あ 》げ場から通りに出た時のこと。商会の三階を仰《あお》ぎ見れば、ちょうど木窓を開けたホロが見えた。  ホロは早速《さっそく》口に生姜《ショウガ》のはちみつ漬《づ》けを咥《くわ》えながら、窓枠に頬杖《ほおづえ》をつく。  まったくたわけた雄《おす》でありんす、と今にも言いそうな顔つきだ。  思わず手を振《ふ》りそうになってしまったが、手綱《た づな》を握《にぎ》り締《し》めて前を向く。  ロレンスは、荷馬車を駆《か》ってルワイ村とやらに向かっていった。  ルワイ村の場所はすぐにわかるだろう、と言った商会の人間の言葉の意味が、町を出た直後にわかった。  臨時《りんじ》に立てられたと思しき木札には、殴《なぐ》り書《が》きでルワイとある。  しかも、夜通し荷物を運ぶつもりなのか、道には要所要所でかがり火の用意があった。  多分、半分は道しるべとして、もう半分は積荷《つみに》をそのまま別の場所に運んで転売しようとする不埒《ふ らち》な輩《やから》がいないかと見張るためだろう。  いつの間にか空は真っ赤で、もうしばらくすると群青色になるはずだ。  すれ違《ちが》う者たちは皆《みな》一様に疲労《ひ ろう》の色が濃《こ》く、空荷の荷馬車を駆る者は何人かが御者《ぎょしゃ》台の上で眠《ねむ》っていた。  後ろを振り向けば、同じ目的地に向かっているらしい者たちがちらほらと見える。  背中に荷物を背負っている者、馬に積んでいる者、荷馬車に載《の》せている者。  服装も装備もまちまちで、この仕事が突然《とつぜん》入った臨時《りんじ》のものであることを強調する。  オーム商会の荷揚げ場にあったあの諸々《もろもろ》の資材は、十中八九水車を作るためのものだ。  この町の周辺は肥沃《ひ よく》な土地のようだから、生産高が上がれば粉を挽《ひ》くための水車が必要になるし、水車は粉を挽くためだけにあるのではない。豊かな土地には人が集まり、人が集まればたくさんのものが必要になる。鍛冶《かじ》や染色、紡績《ぼうせき》の工程でたくさんの水車の力が必要になるのだ。  ただ、設置や維持《いじ》には莫大《ばくだい》な金のかかる設備であるし、水車が置かれる川は基本的に貴族の所有だ。必要だからといってすぐに設置ができるかというと、あちこちの利害と思惑《おもわく》が絡《から》んで思うようにいかないことが多い。  商会のこの繁忙《はんぼう》っぷりを見ると、おそらく水車の設置を巡《めぐ》ってあれこれ対立があり、日にちがずれにずれてようやく設置が決まったのだろう。  急いでいるのは、春になれば山のほうで雪が溶《と》け、作業が大変になるからだ。  水量の少ないうちに護岸を完成して水車を設置し、春の雪解けの水で水車を存分に活用する、という目論見《もくろ み 》に違いない。  それが成功するかどうかはわからないが、かなり無茶な工程なのはよくわかる。  もっとも、そのお陰《かげ》で何食わぬ顔で潜《もぐ》り込めたのだから、幸運を神に感謝するところだ。  それに、ホロのいない荷馬車も久しぶりな気がして、清々《すがすが》しいというのは言いすぎでも気楽な感じが新鮮《しんせん》だった。  以前は一人で荷馬車を駆《か》るのが孤独《こ どく》で仕方がなかったのに、人は本当に勝手なものだと思う。  日が暮れ、遠くに狼《オオカミ》の鳴き声を聞いて身を震《ふる》わせるのも久しぶりのこと。  欠伸《あくび》を噛《か》み殺しながら道の穴や沢《さわ》に車輪を取られないようにと注意して進み、ついに月夜の空に赤い火の色が映り込むルワイ村に到着《とうちゃく》する。  村の北|側《がわ》は急な斜面《しゃめん》に沿って森が広がり、そこを川が通っていた。  普段《ふ だん》は日が暮れれば森の暗闇《くらやみ》の中に沈《しず》んでしまうところなのだろうが、今は川沿いが切り開かれ、たくさんのかがり火が焚《た》かれているせいで火の川のように浮かび上がっている。  あっちこっちで仮眠《か みん》を取っている者がいるし、川沿いでは忙《いそが》しく立ち働いている職人たちの姿も見える。  それは予想以上の大工事で、複数の水車をいっぺんに設置するつもりなのかもしれない。  意外に大儲《おおもう》けにつながりそうだ。  積荷《つみに》を届けて賃金の代わりの木札を貰《もら》い、ロレンスは再びいそいそと荷馬車に乗り込んだ。  人の言葉は喋《しゃべ》れないながら、馬がぐるっとこちらを振《ふ》り向いて紫《むらさき》色の瞳《ひとみ》で訴《うった》えかけてくる。  勘弁《かんべん》してくださいよ、と。  しかし、ロレンスは構わず手綱《た づな》を引いて方向|転換《てんかん》し、ぴしりと叩《たた》いて馬を進ませた。  これは往復すればするだけ儲かる単純な商《あきな》いだ。  寸暇《すんか》を惜《お》しんでの行進に、久しく忘れていた昔を思い出す。  馬にすればいい迷惑《めいわく》だろうが、ロレンスは少し笑いながら毛布を肩《かた》に回してかき寄せる。  さて、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けまでには何往復で足りるだろうか。  そんなことを考えながら、月明かりの下を進んでいったのだった。  ルワイ村に向かう道は大荒《おおあ》れだった。  オーム商会が大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いの賃金を払《はら》ううえに、相当工期が短いらしく人集めの触《ふ》れをわざわざ出したらしい。そのせいで、仕事を求めて山ほど人が群がってきたのだ。  だからだろう。道には日頃《ひ ごろ》から荷を運んだりといった商人の姿よりも、一時の稼《かせ》ぎを求めてやってきた者たちのほうが多く目についた。農夫や羊飼いから、大道芸人や旅の途中《とちゅう》の修道士らしき者、前掛《まえか》けをつけたままの職人たちまでいたのだから、ほとんど町の人間総出といっても大袈裟《おおげ さ 》ではないかもしれない。多くの者が荷物を背負って、慣れない力仕事に勤《いそ》しんでいる。  しかし、ルワイ村に続く道はそれほど険しいものではないといっても、諸々《もろもろ》問題はあった。  途中《とちゅう》の森に沿って進む場所では、行き交《か》う人たちの気配にあてられたのか、さもなくば荷を運ぶ途中に歩きながら食べる糧食《りょうしょく》の匂《にお》いに釣《つ》られたのだろう、狼《オオカミ》や野犬の鳴き声が頻繁《ひんぱん》に聞こえていたし、小川にかけられた貧弱な橋では渡《わた》る順番を巡《めぐ》って喧嘩《けんか》も起こっていた。  村は村で運ばれてくる荷物の整理や、水車工事の話を聞きつけてやってくる遍歴《へんれき》職人たちの対応に追われている。それに加えて村にやってくる者たちの喉《のど》を潤《うるお》すために、女子供はせっせと川から水を汲んできている。そのせいで、村の広場から川に向かってはこぼれた水で沼地のようになっていたくらいだ。  そんな村には、ちらほらと腰《こし》に剣《けん》を差して銀や鉄の胸当てをつけた兵がいた。おそらく水車の持ち主の貴族が仕事ぶりを監視《かんし》しに来ているのだろう。  昼過ぎはまだしも皆《みな》体力があり、賃金の支払《し はら》いが太っ腹なこともあって大した問題は起こらなかった。  しかし、それも日が傾《かたむ》き始め、人々が疲《つか》れの前に膝《ひざ》を屈《くっ》し始めた頃《ころ》、雲行きが怪《あや》しくなってきた。  オーム商会に戻《もど》っても、荷を積むための荷揚《に あ 》げ人足たちが音を上げているせいで搬出《はんしゅつ》作業は遅々《ち ち》として進まない。挙句《あげく》に、汗《あせ》だくになって戻ってくる者たちの中には、途中の道で野犬が出たと告げる者もあった。  ロレンスも荷馬車で荷を運んだのは七度。かなり疲れが溜《た》まってきている。  道は険しくなくとも、人が多ければそれだけ消耗《しょうもう》する。  財布《さいふ》の中を軽く確認《かくにん》しても、今日の稼《かせ》ぎはトレニー銀貨で七枚。  決して悪い稼ぎではなく、むしろ破格と言ってもいいほどだが、これだと桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けを買うにはあと三日か四日かかる。この先さらに人々が集まり、作業が滞《とどこお》るとなればもっと時間がかかってしまう。早く荷を積んでくれればもっと稼げるのに、とじれるのを抑《おさ》えきれない。  ただ、そんなことを思っても人の作業量には限界がある。  ロレンスは一度深呼吸をして、荷馬車の上で少し思案する。急がば回れ、という言葉もあるくらいだ。今は休憩《きゅうけい》を入れ、人が少なくなるだろう夜になって荷を運べばもっと効率よく稼げるはず、という可能性に賭《か》けることにした。  荷馬車を行列から外し、全《すべ》ての馬が貸し出し中でがらんとした馬屋に、荷馬車ごと預けて商会の割り当てられた部屋に戻《もど》る。  ホロは一体どんなことを女将《おかみ》に言って部屋を借りたのか、追い出されることも相部屋になることもなかった。部屋にはホロが一人いて、窓|際《ぎわ》に置いた椅子《いす》に座りながら、差し込む茜《あかね》色の日の光に晒《さら》されて膨《ふく》らんだ尻尾《しっぽ》を丁寧《ていねい》に櫛《くし》で梳《す》いていた。  くたくたになったロレンスが短剣や財布を机の上に置いても視線一つ向けてこない。優雅《ゆうが》なものだな、とつい非難めいたことを思ってしまうが、部屋にいろと言ったのはロレンス自身。  思ったことを口にする愚《ぐ》は避《さ》けられたが、それにしたってもう少しなにかあってもいいのではないか。  ロレンスがそんなことを思いながら、疲《つか》れきった体をベッドに横たえようとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「あと二玉だそうじゃ」  なんのことか一瞬《いっしゅん》わからずにホロを見返すと、ホロはこちらなど見向きもしていなかった。 「一玉売れて、もう一玉も、遠からず売れそうじゃと」  桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けの話だと気がつくのにだいぶかかった。  疲れていたのもあるし、ねぎらいとまではいかなくても、楽しげな雑談を期待していた。  しかし、一昼夜|手綱《た づな》を握《にぎ》って戻《もど》ってくれば、いきなり催促《さいそく》するようなその言葉。  ロレンスはさすがにむっとしつつも、なるべく声に出ないようにこう聞き返す。 「わざわざ確認《かくにん》しに行ったのか」  わざわざ、というあたりに苛立《いらだ》ちが出てしまったけれども、そんなことを気にする余裕《よ ゆう》もないほどに疲れている。  ロレンスはベッドに腰掛《こしか》け、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐために紐《ひも》を解《と》く。 「大丈夫《だいじょうぶ》なんじゃろうな?」  ホロの追加の言葉にぴたりと手が止まる。わずかの間をあけて、再び手を動かし靴を脱ぐ。 「一玉一リュミオーネ。おいそれと買えるような値段じゃないし、それを買えるような奴《やつ》がごうごろしているとも思えない」 「そうかや。それなら安心じゃな」  素直《す なお》な返事、と額面どおりに受け取ることもできただろうが、あまりにもわざとらしい言い方に疲れた神経が逆撫《さかな》でされる。懇切丁寧《こんせつていねい》にいかに一リュミオーネが大金かを説明してやろうかとも思ったが、少し冷静になって考えなおす。  ホロがこちらの神経を逆撫でする理由などないのだから、おそらく疲れているせいでそう感じるのだろう。  ロレンスは思いなおし、仮眠《か みん》のために服のあちこちを緩《ゆる》めていた。  その様を、いつの間にか視線をこちらに向けていたホロがじっと見つめていたことに気がついたのは、もうあとは体を横たえるだけと気まで緩みきった、その瞬間《しゅんかん》だった。 「なにせ、ぬし様はさぞ稼《かせ》いできたんじゃろうからな」  剥《む》き出《だ》しの悪意に打たれ、ロレンスは逆に驚《おどろ》いてしまう。 「明日かや? それとも今夜には稼ぎ終わるのかや? 今まで七度も荷を受け取ったようじゃからな。稼ぎも相当なものに違《ちが》いない」  ちくちくと噛《か》んでくる蟻《アリ》には苛ついても、ぶすりと針を突《つ》き刺《さ》そうとする蜂《ハチ》には怯《おび》えてしまう。ロレンスは牙《きば》を剥いて唸《うな》りかねないホロを前に、先ほどまでの苛つきはどこへやら、ほとんど反射的に言い訳をしていた。 「い、いや、それが、銀貨で七枚で……」 「七枚? ほう。それで、急ぐあまりに無理が出始めておるというのに、ぬしは一リュミオーネとやらを一体どのくらいで稼《かせ》ぎ終わるのかや?」  部屋に戻《もど》ってきた時は、茜《あかね》色の日差しのせいでふかふかになっていたと思った尻尾《しっぽ》は、別の理由によって膨《ふく》らんでいたのだと気がついた。  ただ、慌《あわ》てるロレンスの頭の中身は真っ白だ。ホロがなにに怒《おこ》っているのかわからない。  桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けがなくなりそうだから? それとも、一刻も早く食べたいから?  自分が疲《つか》れているから思いつかないだとか、そんな瑣末《さ まつ》な理由ではない。ロレンスは丸っきりホロが怒っている理由がわからずに、阿呆《あ ほう》のように言葉に詰《つ》まってしまう。  ホロの目は茜色の日の中にあって、ほとんど真っ赤な兎《ウサギ》の目。ホロの怒《いか》りに満ちた目がぎらぎらとこちらを睨《にら》み、返答|次第《し だい》では命まで危ない。そんな馬鹿《ばか》げたことすら思ってしまった直後、ロレンスは妙《みょう》なことに気がついた。ホロは今しがたなんと言った? 今まで七度も荷を受け取ってと言ったが、どうしてそんな細かい回数までホロは知っているのだろうか?  積荷《つみに》を荷馬車に積む、当の商会の者たちですら把握《は あく》していないだろうそんな数字のことを。  まるで、夜もすがらその窓|際《ぎわ》から外を眺《なが》めていたような、そんなことを。  ロレンスは、そこまで思ってから「あ」と声を上げた。ホロの耳がぴんと張り、尻尾が膝《ひざ》の上でむくりと膨らんだ。  ただし、もう怒りに満ちた目はこちらに向けられず、嫌味《いやみ》たっぷりの言葉も聞こえない。代わりにホロは目を細めてそっぽを向く。茜色の日の下ならば、なんでも塗《ぬ》りつぶしてくれると願うように。 「……お前」  と、ロレンスが口を開きかけた瞬間《しゅんかん》、文字どおり牙《きば》を剥《む》いたホロがかっとこちらを振《ふ》り向いた。 「いや、なんでもない」  ロレンスが口をつぐむと、ホロはしばしロレンスを睨んだあと、大きくため息をついて目を閉じる。それが再度開かれた時、ロレンスのことは見ずに、自分の手元だけを見つめていた。  ホロはロレンスのことを心配していたのもあるだろうが、それ以上に一人で宿に放《ほう》っておかれて寂《さび》しかったのだろう。  孤独《こ どく》は死に至る病とまで言って、ロレンスのために本当に命まで懸《か》けてくれたことがあるホロのことを、もちろん忘れていたわけでは決してない。  ホロのために疲《つか》れた体に鞭《むち》打っているのもそのためだが、それでも思っているだけでは伝わらない。それこそ、ホロがその窓から、ロレンスのことを見つめていたように。  ホロは、たとえ単調な仕事であっても、自分の疲れが癒《い》えていなくとも、誘《さそ》ってもらいたいのだ。放っておかれるよりは断然まし、と健気《けなげ》なことを思って。  ロレンスは咳払《せきばら》いをして間を稼《かせ》ぐ。  ホロのことだから、あからさまに誘《さそ》えば呆《あき》れるか怒《おこ》るかするだろうし、もしかしたら哀《あわ》れまれたと誇《ほこ》りを傷つけるかもしれない。  だから、上手にそれらしい理由を見つけなければならない。  ロレンスは商談の時よりもよほど頭を働かせて、ようやくそれらしい誘い文句を思いついた。  ルワイ村に行く途中《とちゅう》の、森の側《そば》を通る道のこと。  ロレンスはもう一度咳払いをして、ようやく口を開いた。 「村への道の途中に野犬が出る場所があってな。これから日が暮れると危ない。もし、お前さえよければ」  一度言葉を切って、ホロの反応を確かめる。  ホロは自分の手元を見つめたままだが、もう、その姿からあまり寂《さび》しそうな感じは窺《うかが》えなかった。 「ぜひ、手を貸してもらいたいんだが」  ロレンスが、ぜひ、のところに力を込めて言った瞬間《しゅんかん》、ホロの耳は間違《ま ちが》いなく動いていた。  しかし、ロレンスの言葉が終わってもすぐに返事をしないのは、多分|賢狼《けんろう》としての誇りだろう。望みどおりの言葉を引き出したからといって、尻尾《しっぽ》を振《ふ》って返事をしては沽券《こ けん》に関《かか》わるとでも思っているのかもしれない。  ホロはもったいぶるようにため息をつき、自分の尻尾を手元に引き寄せて大きく一撫《ひとな》でする。  それからこちらに向けられたやや上目遣《うわめ づか》いの一瞥《いちべつ》は、若干《じゃっかん》不機嫌《ふ き げん》な姫君《ひめぎみ》のそれだった。 「どうしてもかや?」  そして、そんな言葉。  あくまでもロレンスが無理に誘ったという体《てい》にしたいらしい。  さもなくば、ひたすらロレンスを折れさせるという、憂《う》さ晴《ば》らしなのだろう。  ずっと宿に放《ほう》っておいたのはロレンスの失敗。  罪は、償《つぐな》わなければならない。 「ああ。頼《たの》めないか?」  殊更《ことさら》哀《あわ》れみを込めて言うと、そっぽを向いていたホロの耳が二度動いた。  ホロが軽く手を口に当てて咳をしたのは、多分笑い出すのを堪《こら》えるためだろう。 「仕方がないの」  ため息まじりにホロは言って、ちらりと視線をこちらに向けてくる。  職人は、最後の締《し》めをきちんとしてこそ一人前だと言われる。  ロレンスは、照れも馬鹿《ばか》馬鹿しさも押し隠《かく》し、満面の笑《え》みでこう応《こた》えた。 「ありがとう」  ついに、ホロが軽く吹《ふ》き出した。 「んむ」  くすぐったそうに首をすくめているのは、本当に機嫌《き げん》がいい時の証拠《しょうこ》。  なんにせよ、ご機嫌《き げん》斜《なな》めのホロが張った意地悪な綱渡《つなわた》りを無事終えた。  ロレンスは安堵《あんど》のため息もそこそこに、最後に上着を脱《ぬ》いでベルトを外す。上着は椅子《いす》の背もたれにでも掛《か》けておかなければならないが、もうそこまでする気力すらない。  なにより一刻も早く横になって眠《ねむ》りたい。  その心地《ここち》よさまであと少し。  ロレンスの魂《たましい》がすでに口から出かかっていたその瞬間《しゅんかん》、ホロが立ち上がってこう言った。 「ぬしよなにをしておる?」  目の前が真っ暗になったのか、はたまた実際に瞼《まぶた》が閉じていたのか区別がつかない。 「え?」 「ほれ、そうと決まれば休憩《きゅうけい》はおしまいじゃ。ぐずぐすしておる暇《ひま》などありんせん」  目をこすり、必死に瞼を開けてホロのほうを見ると、フードのついた外套《がいとう》をいそいそと着込んでいる。  まさか、冗談《じょうだん》だろう?  怒《おこ》るよりももはや呆然《ぼうぜん》として、支度《し たく》するホロを見つめていた。  無邪気《む じゃき》な笑顔《え がお》が残酷《ざんこく》に、嬉《うれ》しそうに揺《ゆ》れる尻尾《しっぽ》が恐《おそ》ろしく見えた。ホロは支度を終えると、笑顔《え がお》のままこちらに歩み寄ってくる。  冗談《じょうだん》だ、冗談のはず。  ロレンスが祈《いの》るように胸中で呟《つぶや》いても、ホロの歩みは止まらなかった。 「ほれ、行こう」  そして、ロレンスの手を取るとベッドに腰掛《こしか》けているロレンスを立たせようとする。  いかなロレンスであっても限界がある。  無意識のうちに振《ふ》り払《はら》って、こう言っていた。 「勘弁《かんべん》してくれ、馬車馬じゃないんだっ」  そして、言ってしまってから、失言だったとホロを仰《あお》ぎ見る。  しかし、手を振り払われたままこちらを見るホロの顔は、いたずらっぽい笑顔だった。 「うん。そうじゃろうな」  怒《おこ》っているのか、とロレンスは疑ってしまうが、ホロは「よっこいせ」と言って機嫌《き げん》よさそうにロレンスの隣《となり》に腰を下ろした。 「くふ。なんじゃ、わっちが怒っているとでも?」  その嬉《うれ》しそうな顔は、そもそもロレンスを怒らせるのが目的だったことを示している。  要するに、からかわれていたのだ。 「ぬしは今から仮眠《か みん》して、人が少なくなった夜に効率よく稼《かせ》こうと、そう思っておるんじゃろ?」  長いこと窓から外を見ていれば、簡単に気がつくことだ。  ロレンスはうなずき、ならば寝《ね》かせてくれ、ともはや懇願《こんがん》を込めてホロを見る。 「だからぬしはたわけと言うんじゃ」  ひょいと顎鬚《あごひげ》を掴《つか》まれて、軽く右に左にと揺《ゆ》らされる。  眠気《ねむけ》と疲《つか》れで、そんなことをされてもむしろ心地《ここち》よいくらいだ。 「ぬしが一晩中荷を運び、御者《ぎょしゃ》台で仮眠して、わっちと朝ごはんすら食べずに出発して、今の今まで働いて、銀貨が七枚だったかや」 「……ああ」 「わっちゃあ、一リュミオーネを銀貨で三十五枚くらいだったと記憶《き おく》していんす。だとすると、ぬしが桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けを買うのにあとどのくらいかかるかや」  小僧《こ ぞう》でもできる計算だ。  ロレンスは、答える。 「四日」 「んむ。かかりすぎじゃな。しかも」  ロレンスが口を挟《はさ》もうとしたのを見|越《こ》して、ホロは言葉を強引につなぐ。 「荷揚《に あ 》げ場は大混雑。仕方ないから休憩《きゅうけい》して、夜にまた来よう、と考えておるのが自分だけ、と思うのはいかがなものじゃろう」  ホロは得意げな顔をして、フードの下で耳を揺《ゆ》らす。ここからなら、ホロの耳を使えば荷揚《に あ 》げ場の会話を全《すべ》て聞くことができるはず。 「皆《みな》、同じことを考えているのか……」 「んむ。混雑はさほど変わらんじゃろうな。それに荷を積む連中とて寝《ね》なければならぬ。ぬしが疲労困億《ひ ろうこんぱい》、青息吐息《あおいきといき》、七転八倒《しちてんばっとう》してようやく五日。どうせ途中《とちゅう》で無理が出るじゃろうから、七日か八日。そんなところじゃろ」  確かにそんな計算が正しいような気がする。  ロレンスがぼんやりうなずくと、ホロがひょいと手を伸《の》ばして額を突《つ》ついてきた。  疲《つか》れきった体では、そんな不意打ちにすら対処できない。ばたりとベットの上に仰向《あおむ》けになって、視線だけをなんとかホロに向ける。 「どうしたらいい」 「一つは、桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けが売れないようにと祈《いの》る」  ロレンスは目を閉じ、半分寝ながら言葉を紡《つむ》ぐ。 「もう一つは?」 「なにか別の商《あきな》いを考える」 「……別の?」  積荷《つみに》を運ぶだけで破格の賃金が受け取れるような商売を目の前にして、別の仕事をするなんて間抜《まぬ》けのすることだ。  ロレンスは暗闇《くらやみ》の中でそう思ったのだが、意識が全て沈《しず》んでしまう直前、ホロの声が耳元でこう囁《ささや》いた。 「わっちゃあここで立ち話を聞いた。どうせわっちのことを野犬|除《よ》けに使うなら、もっといい儲《もう》け話《ばなし》がありんす。それはな……」  ロレンスは寝ながらにして、儲けの計算をしていたのだった。  馬屋で借りたのは二輪の荷馬車だ。  荷台は小さく、御者《ぎょしゃ》台も狭《せま》いが、その分軽いので高速で移動することができる。  次に、荒縄《あらなわ》、毛布、籠《かご》、それからちょっとした板に、大量の小銭《こ ぜに》。  ロレンスが全てを準備してから一|軒《けん》の建物の前に荷馬車を横づけすると、店主が待ち構えていたかのように中から飛び出してきた。 「いやあ、待ってたよ。借りられたかい」 「ええ、そちらのほうは?」 「準備|万端《ばんたん》さ。朝もやの晴れないうちに扉《とびら》を叩《たた》くからまた旅人かと思ったがね、まさかこんな仕事を頼《たの》まれるとは思わなかった」  機嫌《き げん》よく笑うのは宿屋の店主。  ただし、その前掛《まえか》けは油やパンくずで汚《よご》れきっている。 「パン屋の奴《やつ》にも昨晩飛び込みで依頼《い らい》に行ったんだって? 職人たちは教会より早く起きる羽目になって文句たらたらだったそうだよ」  言いながら大笑いし、店王は宿の中を振《ふ》り返って手招きする。  出てきたのは、よたよたとしながらそれぞれ大きな鍋《なべ》を持った二人の小僧《こ ぞう》。 「合わせて五十人分くらいにはなる。小僧を肉屋に走らせたら、どれだけ客を泊《と》めたんだと心配されたと言っていたよ」 「急なお願いだったのに、本当にありがとうございました」 「なあに。宿は組合の規則のせいで儲《もう》けの限度が決まっているからね。臨時《りんじ》収入が得られるならお安い御用《ご よう》さ」  狭《せま》い荷台に二人がかりで詰《つ》め込んで、粗皮《あらかわ》で包んで保温する。中身はたっぷりニンニクをきかして焼いた羊肉。脂《あぶら》の弾《はじ》ける音がまだ聞こえていた。  次に運ばれてきたのはこれもまた大きな籠《かご》で、中には切れ込みの入ったパンがある。  そして間を置かず積み込まれた樽《たる》が二つ。中身は良くも悪くもないぶどう酒だ。  二輪の荷馬車だともうこれでぎゅうぎゅう詰め。ロレンスは店主に手伝ってもらいながら、荒縄《あらなわ》でぐるぐる巻きにして固定する。荷馬が後ろを振り向いたのは、多分|偶然《ぐうぜん》ではないだろう。  これを運ぶんですか? と口が利《き》けたなら言ったに違《ちが》いない。 「しかし、金を受け取ってここまで準備しておいてなんなんだが」  と、料理の代金の残額を数え終わってから、おもむろに店主が言う。  臨時収入の時にはいつもそうしているのか、小僧たちは磨《す》り減った貨幣《か へい》を幾《いく》ばくか貰《もら》い、嬉《うれ》しそうに笑いながら宿の中に戻《もど》っていった。 「本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのかい? ルワイ村に続く道は森の側《そば》を通るだろう?」 「その森というのは……狼《オオカミ》や野犬の出るという?」 「そうそう。オーム商会がルワイ村に資材を運ぶために慌《あわ》てて切り開いた道さ。あそこにいるのは町で増えて外に出た犬ばかりだがね。その分、人を恐《おそ》れないから厄介《やっかい》だ。そこを、こんなにいい匂《にお》いのするものを持っていくのは正直危険すぎると思うんだ。他《ほか》にもあなたと同じようなことを考えた人がいただろうけどね、あそこを通るのが危険すぎて諦《あきら》めたはずだ」  ホロがあの部屋で聞いたという立ち話。  もしも野犬をどうにかできるのなら、飯を作って、水も満足に用意できないルワイ村で売り捌《さば》けるのに。 「はは。大丈夫ですよ」  ロレンスは笑って応《こた》えて、二輪馬車の荷台に目を向けた。  そこではくくりつけられた積荷《つみに》の上に、板を置く者がいる。  小柄《こ がら》で、華奢《きゃしゃ》で、ふとした拍子《ひょうし》に巻きスカートの下から腰帯《こしおび》かなにかの毛皮がちらりと覗《のぞ》く娘《むすめ》だ。板を固定し終わると、娘はその上にちょこんと座って満足げにうなずいている。  そして、ロレンスの視線に気がつくや、店主に向けてにこりと微笑《ほほえ》んだ。 「海の悪魔《あくま》や災《わざわ》いに対抗《たいこう》して、船の舳先《へさき》に女神を乗せるようにね。この娘がいますから」 「ほほう……いや、しかし、犬|除《よ》けに?」  店主は訝《いぶか》しげにするが、ロレンスが自信ありげにうなずくので、特になんとも言わなかった。  宿で主人をやっていれば、色々な地方の色々な験《げん》の担《かつ》ぎ方《かた》というものを目《ま》の当《あ》たりにする。  蛇《ヘビ》や蛙《カエル》にお供え物をしないだけましなのかもしれない。  なにより、ロレンスからは臨時《りんじ》収入という立派なお供え物をすでに受け取ったあとなのだから、主人としてはとやかく言う理由はどこにもない。 「神のご加護を」  最後にそうとだけ言って、荷馬車から二歩|離《はな》れた。 「ありがとうございます。あ、そうそう」 「はい?」  ロレンスは荷馬車に飛び乗って、御者《ぎょしゃ》台から声をかける。  二輪の馬車はさして珍《めずら》しくもないが、積荷の上に少女が楽しげに腰|掛《か》けているとなると話は別だ。行き交《か》う人々は物珍しそうにこちらを見て、道を駆《か》ける子供たちはお祭りかと無邪気《む じゃき》にホロに手を振《ふ》っていた。 「もしかしたら、夜にまた同じ注文をしに来るかもしれません」  店主はひゅっと口をすぼめて、それからにかりと歯を見せて笑った。 「うちの宿は満員|御礼《おんれい》。人手ならたくさんある。組合法は、客を手伝わせることまで規制はしていないからね」  そう言って、大きく笑う。 「では」 「おお、行ってらっしゃい。よい旅を」  ごとり、と荷馬車は動き、ゆっくりと進み出す。  朝の混雑する町の中を行く間は、馬を止めたり向きを変えたりする必要があり、二つしか車輪がないせいで荷台の上は大変なことになっていた。  その都度《つど》ホロはロレンスの真後ろで間抜《まぬ》けな声を出しながら必死に落ちまいとしていたが、やがて荷馬車は町の外れにたどり着く。  二輪の馬車が本領を発揮する、外の世界だ。 「さて、心の準備はよろしいか」  ロレンスの言葉に、板の上に前のめりになるように座ったホロが、ロレンスの首に両|腕《うで》を回しながらうなずいた。 「わっちのほうが速いんじゃ。馬の速さくらいなんともありんせん」 「だが、それは自分の足で走った時のことだろう?」  いつもはロレンスがホロにしがみつく格好だった。  商《あきな》いだって、同じ金額でも他人の金を使ってやる商売というものは緊張《きんちょう》感が違《ちが》う。  ホロは、ぐいと腕《うで》に力を込めて、ロレンスの肩《かた》に顎《あご》を載《の》せる。 「なら、しっかりと掴《つか》まっておかんとな。いつもぬしがするように。必死に、泣くのをこらえながら」 「泣いてはいないだろ……」 「くふっくっく」  意地悪そうに笑うホロの吐息《と いき》がくすぐったい。  ロレンスは、やれやれとため息をつく。  そして、こう言った。 「だが、泣いても止めないからな」 「そんなわけ——」  と、そのあとに続くホロの言葉は、手綱《た づな》でぴしりと馬の尻《しり》を叩《たた》く音でかき消された。  馬は走り出し、二つの車輪が回転する。  ホロが泣いたか泣かなかったかは、多分この先ずっと喧嘩《けんか》の種になるだろう。  道程は爽快《そうかい》の一言に尽《つ》きた。  二輪の荷馬車は荷を積める量が極端《きょくたん》に少ないし、四輪のものよりも振動《しんどう》がひどい。  その代わり、その速度だけは素晴《すば》らしい。  ロレンスも滅多《めった》に使わないのだが、料理を温かいうちに運びたいような時にはうってつけのものといえる。がたがたと揺《ゆ》れる御者《ぎょしゃ》台の上で手綱を握《にぎ》っていると、流れるような景色そのものを操《あやつ》っているように思えてくる。  最初のうちは怯《おび》えてしがみついていたホロも、あっという間に慣れてしまったらしい。  件《くだん》の森に差《さ》し掛《か》かる頃《ころ》にはロレンスの肩に手を置くだけで、積荷《つみに》の上に立って風を目《め》一杯《いっぱい》体に受けて大笑いしていた。  道は野犬が出るという森の側《そば》なだけあって、道行く者たちは総じてうつむきがちに、中には抜《ぬ》き身《み》の剣《けん》を晒《さら》している者までいた。それが二輪馬車の荷台の上に立ち、楽しげにしている娘《むすめ》を見れば犬ごときに怯《おび》えている自分が馬鹿《ばか》らしく思えてくるのだろう。  すれ違う者たちはぱっと顔を輝《かがや》かせ、こちらに向かって大きく手を振《ふ》ってくる。ホロはそれに一々手を振り返しているようで、荷台から落ちそうになったのも一度や二度ではない。  その都度《つど》ロレンスの首を絞《し》めかねないほどにすがりついてくるが、けたけたと笑うホロに注意する気も起きてこない。  こんなにも陽気な狼《オオカミ》なのだから、部屋に置き去りにされればそれは怒《おこ》るというものだ。  途中《とちゅう》など、森の中から遠吠《とおぼ》えが聞こえ、道を行く者たちが一斉《いっせい》に森のほうを見て足を止めた。  その瞬間《しゅんかん》にホロが待っていましたとばかりに遠吠えを披露《ひ ろう》して、今度は全員がぎょっとこちらを見る。  そして、自分たちの臆病《おくびょう》さ加減に気がつくのだ。  荷台の上で楽しそうに遠吠えするホロに合わせて、一本取られたとばかりに行き交《か》う考たちまでも楽しそうに吼《ほ》えていた。  一人荷馬車に座っていては絶対に味わえない楽しさを経て、ルワイ村に到着《とうちゃく》する。  荷台に水車の資材を載《の》せる代わりに、樽《たる》や毛布で包《くる》まれた鍋《なべ》の上に少女を乗せている荷馬車を見て、村にいた面々は揃《そろ》って不思議そうな顔をしていた。ロレンスはそんな視線の中で悠々《ゆうゆう》と荷馬車を停《と》め、ぱったぱったと尻尾《しっぽ》が音を立てていてもおかしくないくらいに機嫌《き げん》の良さそうなホロを、荷台から抱きかかえるようにして下ろす。ホロに商《あきな》いの準備をさせている最中に、ロレンスは村の責任者を探し出して交渉《こうしょう》する。最後には数枚の銀貨を握《にぎ》らせて、村で食べ物を売る許可を得た。元より川から水を汲《く》むことすらが間に合わないくらいに忙《いそが》しいのだ。  ロレンスとホロがパンに肉を挟《はさ》み売り出すや否《いな》や、森の側《そば》の道が怖《こわ》いせいで食べ物を持たずにやってきた商人たちのみならず、村人たちもこぞって集まってきた。 「ほれ、そこ! 押すでない! きちんと並びんす!」  薄《うす》く切ってある肉をさらに二つに切り、パンに挟んで売る。ただそれだけのことなのに、愛想を見せている暇《ひま》もないくらいに忙しい。原因は、強気の値段でも売れるだろうと思って持ってきたぶどう酒だった。商品を二つにすると手間は単純に倍ではなく、それ以上のものになる。  過去に一度か二度似たような商売をしたことがあったが、すっかりそのことを忘れていた。  それでもなんとか半分くらいは捌《さば》いた頃《ころ》、ひょいと後ろからやってきた遍歴職人と思《おぼ》しき男にこんなことを言われた。 「仲間の連中も腹を空《す》かしたまま仕事をしているんだがね……」  元が麦に宿る狼《オオカミ》だからか、殊更《ことさら》飯に関することには敏感《びんかん》だ。  ホロはロレンスの顔を見て、そっちにも飯を運ぶべきだと無言で主張する。  肉の残りは大鍋に一つ。積荷《つみに》を積んだ者たちは次から次へと村にやってくるから、じっとしていても遠からず売り切ることができる。  ロレンスは商人だから、売れさえすればなんでもいい。わざわざ場所を変えてまでやることはなさそうに思えたのだが……と思ってふと考えを変える。  村と商会を行ったり来たりする者たちの間には、自分たちの商売の話が行き渡《わた》るはず。それなら、さらに販路《はんろ》を広げるために職人たちにも少し飯を売っておいたほうがいい。  ロレンスが黙考《もっこう》していると、ホロに軽く足を踏《ふ》まれて我に返る。 「ずる賢《がしこ》い顔になっていんす」 「俺は商人だからな。よし」  と、ロレンスは手元にあるパンに肉を挟《はさ》んで客に渡《わた》し終えると、鍋《なべ》にふたをして職人を振《ふ》り向いた。 「二十人分あるかないかですが、よろしいですか」  川沿いで働く職人たちは、飢《う》えた狼《オオカミ》に近いものがあった。  工事を請《う》け負ったオーム商会が金に糸目をつけず職人を集めたものの、彼らの食事や寝床《ね どこ》を手配するまでには至らず、なんとか村人たちの好意で晩飯にだけはありつけているという有様《ありさま》だった。  しかも、工事は期限を切っての出来高|払《ばら》いだから、食事を取りにわざわざ村まで行く時間すらが惜《お》しいらしい。ロレンスたちの存在には気がついても、こちらを無念そうに睨《にら》むだけですぐ視線を手元に戻《もど》してしまう。水車小屋の中で軸《じく》を作ったり内装をしたりしている者たちなどは顔すら見せられない。  酒の詰《つ》まった樽《たる》を担《かつ》いだロレンスと、女たちが荷物を引くための小さな荷車に鍋と籠《かご》を載《の》せて引いていたホロは、顔を見合わせてしまう。  結局、歩き売りをすることになった。 「なんだい、これっぽっちかい! 全然足りないよ!」  パンを売る相手|全《すべ》てがそう言うが、そんな文句も笑顔《え がお》をつけてだ。  屋根のある場所できちんと給金を貰《もら》って仕事をする町の職人ならいざ知らず、どの遍歴職人たちももっと劣悪《れつあく》な条件で働いたことがあると自慢《じ まん》げに言っていた。  なので、誰《だれ》も彼もが腹を空《す》かせているはずなのに、もっと肉とパンを寄越《よこ》せという者は誰もいなかった。  それよりも、なるべく多くの奴《やつ》らに飯を回してやってくれと言われた。一人で大きな水車を造るのは不可能だから、誰一人に倒《たお》れられても困るのがその理由だという。ホロも麦畑というたくさんの人間が働く場所でその営みを見つめていたせいか、話に共感しているらしかった。  単なる愛想とは違《ちが》い、楽しそうに職人たちと軽口を交《か》わすホロ。柄杓《ひしゃく》一杯《いっぱい》幾《いく》らでぶどう酒を売っていたのだが、若干《じゃっかん》多めに注《つ》いでいたのに気がつかないロレンスではない。  ただ、もちろん黙《だま》っておいたのだが。 「パン二つでいいですか!」  そんな大声は、すでに水車が取り付けられている水車小屋の中へ。  麦を挽《ひ》いているわけでもないのに粉っぽいのは、今まさに木を削《けず》っている真っ最中だからだ。  ホロは何度もくしゃみをして、結局小屋の外で待つことに。鼻が良いのでその分|敏感《びんかん》なのかもしれない。  ロレンスはパンを二人分作って、急|傾斜《けいしゃ》の細い階段を上っていく。  ぎし、ぎし、と不安げな音を立てるそれを上がっていくと、天井《てんじょう》との隙間《すきま》にちょつとした空間があった。そこでは二人の職人が体中を木屑《き くず》だらけにしながら、軸《じく》の噛《か》み合わせの調整のためにやすりとのこぎりを持って格闘《かくとう》中だった。 「お持ちしましたよ!」  水車の音というのは意外に大きい。しかも小屋の中では木の軋《きし》んだり回転したりする音も加わってなおさらだ。  ロレンスが大声で叫《さけ》ぶと二人の職人がぱっとこちらを振《ふ》り向いて、ものすごい勢いで這《は》い寄ってくる。  危《あや》うく階段から落とされるところだったとそのあとホロに言ったら、けたけたと笑われた。  もう少し心配してもらいたいものだとため息をついた直後、ホロはおもむろに頬《ほお》についていた木屑を払《はら》って微笑《ほほえ》んでくる。  回って、持ち上げて、落としてまた持ち上げる。  水車と杵《きね》のようなホロの振《ふ》る舞《ま》いに、ロレンスはあっさりと粉々だった。 「さて、概《おおむ》ね回ったかな」 「と、思いんす。肉とパンを半分にしてなんとか行き渡《わた》った感じじゃな」  酒樽《さかだる》と鍋《なべ》を載《の》せた荷車を引くホロの胸元《むなもと》では、職人の一人から貰《もら》ったらしい兎《ウサギ》の形に削《けず》られた木片が揺《ゆ》れている。 「すぐに村に引き返して注文を入れて、明日の昼までに今日の倍は持ってきたいな」 「んむ。じゃが、結局|儲《もう》けはいくらになったんじゃ?」 「ええーっと、ちょっと待てよ……」  指折り数えてあれこれの経費を差し引いて、出てきた数字は思いのほか低い。 「トレニー銀貨|換算《かんざん》で四枚がいいところかな」 「四枚? あれだけ売ってかや?」  確かに財布《さいふ》は小銭《こ ぜに》でぱんぱんだが、質の悪い小銭は何枚あっても所詮《しょせん》小銭だ。 「欲に目が眩《くら》んだ商人たち相手ならもっとふんだくれたんだが、職人たちからそんなに取れないだろう? だから、そんなもんだ」  職人相手にも飯を売ろう、と言い出したのはホロだから、そう言われてぐっと顎《あご》を引く。  もっとも、人に感謝される商《あきな》いは金銭以外に得るものもとても大きい。  利益率が低くとも、多少危険が大きくとも、孤立《こ りつ》した村を行商路からなかなか外せないのは、そこに村人たちの必需《ひつじゅ》品を届けた時のことが忘れられないからだ。  ロレンスはホロの頭に手を置いて、ちょっと乱暴に撫《な》でてやった。 「ま、明日は倍の量を持ってくれば儲《もう》けは倍。事前に言っておけば夜もここに飯を持ってこれるだろうから、そうすればさらに倍。桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けなんてあっという間だろうさ」  ロレンスの言葉にホロはうなずき、うなずいた拍子《ひょうし》に腹がぐうと鳴る。  すると、手の下でホロの耳がびっくりしたように動き、ロレンスはくすぐったくて手を離《はな》してしまう。聞かなかったふりも、気づかなかったふりも無理なので、おとなしく笑ってやることにした。  ホロは唇《くちびる》を尖《とが》らせてロレンスの腕《うで》を叩《たた》こうとする。  叩こうとするが、その拍子にうまい具合にロレンスの腹も鳴った。  ずっとパンや肉と格闘《かくとう》していたので、落ち着いてようやく腹が減ってきたらしい。ロレンスはホロと目が合って、再度笑ってやるとホロの怒《おこ》った表情も一転する。  そして、それからロレンスはふと辺りを見回して、荷車に手を伸《の》ばした。 「どうしたかや?」 「ん、なに」  と、ふたのされた鍋《なべ》と籠《かご》を開けると、底のほうにへばりついていた一切れの肉に、つぶれかけたパンが一つ入っていた。 「残しておいたんだよ。帰り道にでも食おうと思って」  売れるものはなんでも売って、腹が減ったら目にした食えそうなものを全《すべ》て口にして、なんとか飢《う》えをしのいでいたこともあった。売れる商品を取っておいて、あとで食べようなどと考えたこともない。  ロレンスが脂《あぶら》まみれのナイフで肉を切っていると、ホロはわっさわっさと尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしていた。 「しかし、ぬしよ」 「なんだ?」 「ぬしはこう、肝心《かんじん》なところがちょっと抜《ぬ》けていんす」  安い羊肉なので筋が多い。切るのにちょっと手間取って、ようやくホロのほうを見る。 「肝心なところ?」 「んむ。どうせ最後にこんな趣向《しゅこう》を見せるなら、もっとよい肉が食べたかった。この肉は、いまいちじゃった」  昼食も食べずに頑張《がんば》ってくれた、と思うのはさすがにホロを信頼《しんらい》しすぎだったようだ。  もっとも、隙《すき》を見てはこそこそと肉をつまみ食いしているホロのほうが、それらしいといえばそれらしい。  ロレンスはため息をついて、「気がつきませんで」と苦笑いしながら言っておく。  パンを二つに割り、それぞれの間に肉を挟《はさ》み、ちょっと迷ってから大きいほうをホロに渡《わた》す。  その尻尾は子犬のように正直だが、口もまた正直だ。 「それに、職人連中の言い分もよーくわかりんす。こんなのでは足りんせん」 「文句ばかり言うな。俺が駆《か》け出《だ》しの頃《ころ》は、木の芽や食い終わった木の実の種なんかで飢《う》えをしのいでたんだぞ」  ばくり、と豪快《ごうかい》にパンにかぶりついたホロは、視線だけきょろりとこちらに向け、肉ごと噛《か》みちぎるとむっくむっくと咀嚼《そしゃく》する。  ロレンスはナイフをしまい、鍋《なべ》と籠《かご》にふたをし、自分の分のパンを手に取って、再び荷車を引いて歩き出した。 「……むぐ。ぬしは年寄りくさい説教ばかりじゃな」  ようやくパンを飲み込んだホロは、言うに事欠いてそんな言葉を向けてくる。  御歳《おんとし》数百歳の賢狼《けんろう》様に言われてはおしまいだ。 「よりうまいものを、より多く食べたいと思うのは自然の摂理《せつり》じゃ。木がより大きく葉を広げて、より高く伸《の》びていくように」  詭弁《き べん》もホロが言えばなんとなくそれっぽく聞こえるからずるい。  ただ、一口目で一気に半分食べたくせに、意地|汚《きたな》いホロはもう一口で食べてしまうのが惜《お》しくなったのか、ほんの少しだけパンをかじっていた。  そんな子供みたいな様子を見ていたら、ロレンスは思わずこう言っていた。 「そんなに腹減ってたのか」  言葉だけを向けていたらホロに怒《おこ》った目で睨《にら》まれたかもしれない。  それが疑わしげな目を向けられたのは、言葉と共にパンを差し出していたからだ。 「持てる物を分け与《あた》えよ、と神は仰《おお》せだからな」  ホロはしばらくじっとこちらを見つめたあと、結局自分の分はひょいと口に放《ほう》り込んでしまう。  ロレンスの手からは、その数瞬《すうしゅん》後にパンが消えていた。 「ぬしも……むぐ、たまには、雄《おす》らしいことをして……んぐ。くれる」  一刻でも早く新しいパンを食べたいのか、食べながら喋《しゃべ》るホロの様子を見ていればそれだけでお腹《なか》一杯《いっぱい》になる。  昔の旅人たちの食事に関する古い格言を思い出し、ロレンスはなるほどなと笑っていた。 「じゃが、本当にいいのかや?」  と、両手でパンを掴《つか》みながら、ホロは一応そう聞いてくる。  なにが起こってもパンだけは手放すまい、という決意が見て取れそうな姿だが、聞いてくれたのだから、応《こた》えるしかない。  頭の中で、その格言と一昨日《おととい》ホロの言っていた言葉がつながったのは、ロレンスが答えようとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「ああ、いいよ」 「んむ。そうかや、なら──」 「俺は、十分食べたからな」  口を目一杯大きく開けていたホロは、そのままの姿勢できょろりと目だけ向けてくる。 「どうした?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ホロは動揺《どうよう》したように視線をきょろきょろとさせ、それから不機嫌《ふ き げん》そうにこちらを睨む。 「なんじゃ、ぬしも食っておったのかや。珍《めずら》しく気前のよいところを見せてくれたと思っておったのに……」  ぶつぶつと言うホロに、ロレンスはこう言葉を返していた。 「お前の言っていたことは、本当はこういう時に使うんじゃないのか」 「……う、む? わっちが? なにかや」  謎《なぞ》かけめいたことを言うのはいつもホロ。それでホロは戸惑《と まど》うロレンスを見て、そんなこともわからないのかと小突《こづ》き回しては喜んでいる。  ロレンスはそれを意地悪で悪趣味《あくしゅみ》だと思っていたものの、いざこちらがそれをやってみると、ホロが楽しむ理由もよくわかる。かぶりつこうとしていた口を閉じ、ホロは手元のパンとロレンスの顔を見比べて、「?」と首をかしげていた。  本当はそんなホロを肴《さかな》に酒を飲めるのが一番いいのだろうが、きっとそのあとの酔《よ》い覚《ざ》ましの水には毒が入っている。  ロレンスは、よい頃合《ころあい》で、旅人たちの古い言葉を口にした。 「うまいものを食いたければ倍の金を。もっと満足したければ倍の量を。では、さらに喜びを倍にするにはどうすればいいか?」  ホロが豚《ブタ》の丸焼きを見てロレンスに向けた謎《なぞ》かけ。  ロレンスは、笑って言葉を続けていた。 「共に食べる相手を増やせばいい。お前がうまそうにパンを食べる姿を見ていたらな、十分腹|一杯《いっぱい》だ」  ロレンスが笑うと、ホロがうつむきがちになるのは、ちょっとした自己|嫌悪《けんお》かもしれない。  もちろんロレンスにホロを責めるつもりはないし、本当にホロがうまそうにパンを食べてくれるのでそれを見ているだけでいい。  だから、ロレンスは気にしないで食べてくれと言う代わりに、ホロの頭をからかうように撫《な》でようとした。  手が払《はら》われて、逆にホロの手が伸《の》びてきた。 「そんなこと言われて、全部食べられると思っておるのかや」  差し出された手には、ちぎったパン。  きちんと等分されておらず、それどころか必死に妥協《だきょう》して少しだけちぎって差し出した、というところがなんともホロらしい。  そこまでパンを食べたいなら別に構わないのに。  ロレンスがそう言おうとした瞬間《しゅんかん》、ホロがからかうようにこう言った。 「ぬしばかりにうまいものを食わすのは癪《しゃく》じゃからな」  ロレンスは今しがた、気にしないで食べてくれと言う代わりにホロの頭を撫でようとした。  ホロもまた、同じことをしてきたのだ。 「それとも、ぬしは自分さえよければいいのかや?」  賢狼《けんろう》の名は、伊達《だて》ではない。  これを断れば、自分勝手なのはロレンスだ。  ありがたく、ホロが断腸の思いでちぎってくれたのだろうパンを受け取って、礼を言った。 「ありがとう」 「んむ」  ホロはちょっと偉《えら》そうに胸を張りながらうなずいて、馬鹿《ばか》馬鹿しいとばかりに笑い出すとパンにかぶりつく。  ロレンスも貰《もら》ったパンを口に放《ほう》り込み、手についたパン屑《くず》をズボンで軽く払《はら》う。  それを待っていたかのように、ホロの手がロレンスの手を掴《つか》む。  驚《おどろ》いたが、ホロのほうを見るような愚《ぐ》は冒《おか》さない。  無言で笑って、こちらからも握《にぎ》り返す。  からからと荷車を引く音だけが響《ひび》く、穏《おだ》やかな冬の午後のことだった。 [#地付き]終わり [#改ページ] [#改ページ]  旅の途中《とちゅう》に立ち寄る町や村は、つかの間の憩《いこ》いの場と共に旅の必需《ひつじゅ》品の補給場所にもなる。  食料、燃料は言うに及《およ》ばず、荷馬車の修理や衣服の修繕《しゅうぜん》、道や治安の状況《じょうきょう》といった情報も集めなければならない。  人が集まればそれだけたくさんのものが集まるわけで、やらなければならないことは盛りだくさんだ。  しかも、旅の伴侶《はんりょ》がわがままなお姫《ひめ》様もかくや、といった具合になるとなおさらになる。  寒い時期の野宿には絶対に欠かせない燃料を買いに来た時点で、連れの眉根《まゆね》には皺《しわ》が寄っていた。 「……ぬしの金で買うんじゃ。ぬしが判断してくりゃれ」  語尾を上げる疑問形だと、つい騙《だま》されてしまいがちな可愛《か わい》げがあるというのに、投げやりで言い捨てるような言い方だとここまで印象が変わるのか。  そんな驚《おどろ》きすら覚えかねないが、旅の連れ、ホロの真意が言葉とはまったく裏腹なのは疑うべくもなかった。 「そんなに嫌《いや》か?」 「別に」  短く言うホロはそっぽを向いて。頭に三角巾《さんかくきん》を巻き、肩《かた》にはケープ、首に子狐《こギツネ》の襟巻《えりま》きをつけ、手には鹿《シカ》の革《かわ》で作った手袋《てぶくろ》を嵌《は》めているその様は、どこからどうみても町娘《まちむすめ》と呼ぶに相応《ふさわ》しい。それも三角巾《さんかくきん》の下から背中にかけて伸《の》びているのが、貴族にだっておいそれとはないだろうというような綺麗《き れい》な亜麻色《あ ま いろ》の髪《かみ》の毛となれば、すれ違《ちが》う十人が十人とも振《ふ》り向くような美しさだ。  齢《よわい》十余という最も可憐《か れん》に見える時期、と詩人ならば言いかねないが、ロレンスは事の真実を知っている。  ホロは町娘《まちむすめ》でもないし、齢十余の少女でもないし、その実、人ですらない。三角巾を取ればその下には獣《けもの》の耳が、腰《こし》に巻いたローブの下には見事な尻尾《しっぽ》がある。  麦に宿り、その豊作凶作を司《つかさど》り、昔は人々に神と呼ばれていたこともあった存在で、御歳《おんとし》数百歳になる巨大《きょだい》な狼《オオカミ》こそが真の姿であった。  ヨイツの賢狼《けんろう》ホロ。  ホロは事あるごとに胸を張ってそんな二つ名を自慢《じ まん》するが、ロレンスは時折ため息をつきたくなる。  賢狼様とお呼びするには、若干《じゃっかん》心に狭《せま》いところがあったからだ。 「次の町までは大した距離《きょり》もないし、多分そんなに冷え込むこともない。一日、二日なら冷たい飯でも我慢《がまん》できるだろう? だから」 「だから、ぬしが決めてくりゃれ、と言っておる」 「……」  ロレンスとホロが立っているのは、旅人が夜に暖や灯《あか》りを取るための燃料を売る店だ。  店先に積み上げられている大量の薪《まき》は、旅人のみならず色々な人が買っていくし、その隣《となり》に置かれているものだって負けじと売れていく。  確かに薪に比べると火は弱いし、なにより独特の匂《にお》いがある。人より断然鼻のよいホロにすれば実際のところ辛《つら》いことなのかもしれない。  しかし、安い。  そして、値段が安いということは、商人にとって諸々《もろもろ》の欠点について目をつぶり、場合によっては鼻だってふさぐことも厭《いと》わないくらい重要なことなのだ。  ホロが先ほどから嫌《いや》がっているのは、薪よりも格段に値段の安い、黒く固めた泥《どろ》のような、泥炭《でいたん》だった。 「で、どうします? お客さん。あんまり軒先《のきさき》でうろつかれても迷惑《めいわく》なんですがね?」  軒先で薪の山に手を置く主人は苦笑い。  その顔は、半分でわがままな旅の伴侶《はんりょ》に手を焼く様に同情しつつ、もう半分でいい気味だとあざ笑っていた。  一人旅の時には自分自身そう思うことがあったのであまり怒《おこ》ることもできないのだが、ホロくらい器量のよい娘を連れていると往々にして妬《ねた》まれる。  妬まれて萎縮《いしゅく》してしまうようでは商人としてやっていけはしないので、そういう点では気にもしていないのだが、得意げになってしまうのは得策ではない。  特に、その得意げになった鼻っ柱をぐいぐい揺《ゆ》らしては、こちらがおたおたする様を楽しむような底意地の悪い奴《やつ》が隣《となり》にいる場合は。  高慢《こうまん》ちきなお嬢《じょう》様よろしく両|腕《うで》を組んだままそっぽを向いてしまうホロに、ロレンスは仕方なく燃料間題を保留することにした。 「すみません、またあとで来ます」 「はいお待ちしております」  気のない顔でも言葉|遣《づか》いだけは丁寧《ていねい》に。  まるでホロのようだが、そのホロはといえば店から離《はな》れるとたちまち機嫌《き げん》を取り戻《もど》していた。 「次は食料じゃな。ほれ、早く行こう早く行こう」  と、ロレンスの手を取って率先《そっせん》して歩いていく。  傍《はた》から見ると、旅の行商人が運よく町娘《まちむすめ》に懐《なつ》かれている光景、と見えなくもないだろうが、ロレンスは相変わらずのため息を。  旅の糧食《りょうしょく》においては、ホロを言いくるめる難しさは燃料どころの騒《さわ》ぎではない。 「と、顔に書いてありんす」  ホロの意地悪げな笑《え》みと共に向けられる、上目遣《うわめ づか》いの赤みがかった琥珀《こ はく》色の瞳《ひとみ》にロレンスはつい足が止まってしまう。  この狼《オオカミ》は、なんでもお見通しなのだ。 「次の町は大きいらしいからの。ここで贅沢《ぜいたく》を言うつもりはありんせん」 「それは、次の町で贅沢を言うつもりってことだろうが」  に、と歯を見せて笑うホロに、ロレンスは返す言葉もない。  それに、どの道一戦交えることにはなるのだから、ここはおとなしく手を引いてくれるらしいホロの申し出に従っておくことにした。 「じゃあ、ありがたく節約させていただきます」 「んむ」  主食のパンは小麦ではなくライ麦の、それも豆と栗《クリ》の粉を混ぜてかさを誤魔化《ご ま か》した安パンを。  副菜には蕪《カブ》と人参《ニンジン》、それに炒《い》った豆を少々。皮袋《かわぶくろ》に詰めてもらったのは、あまりよくもないが多少は透明度のあるぶどう酒だ。  いつもより抑《おさ》えてはいるというものの、それでも岩のような燕麦《エンバク》パンと酸《す》っぱくて搾《しぼ》りかすだらけのぶどう酒だけで山を越《こ》えていた昔に比べたら十分な出費といえた。  ロレンスが買い物をしている最中に、ホロは店の外に並べられている干した木の実や炒った花の種を眺《なが》めている。  ロレンスは、なにかほかにねだられる前にさっさと用事をすませてしまおうと、黒ずんだ銀貨を一枚店主に渡《わた》し、つり銭を銅貨で受け取りかけて、思い出した。 「あっと、失礼。そっちの銅貨でもいいですか?」 「そっち? ああ、シュミー銅貨か。北の森を通るのかね」 「ええ。確か、途中《とちゅう》に樵《きこり》の村がありましたよね」  旅の途上《とじょう》、訪《おとず》れる町によって必要となる小銭《こ ぜに》の種類も異なってくる。例えば紛争《ふんそう》中の町と町を行き来して、敵方の貨幣《か へい》を使おうとするところを想像してみればいい。 「村と呼ぶにはいささか小さいが、この時期だと雪の前の一仕事で人も多いだろうね。だから、交換《こうかん》比率はこうだ」  何種類、へたをすれば何十種類もの貨幣が交錯《こうさく》する両替《りょうがえ》相場も、商《あきな》いに従事する者ならば大まかには把握《は あく》ずみ。  若干《じゃっかん》こちらが不利になるような交換比率だったが、それでも損はしないだろう。  ロレンスは了承《りょうしょう》して、シュミー銅貨と呼ばれる小さいが肉厚の銅貨を受け取って、店をあとにした。 「商人は面倒《めんどう》くさい連中じゃな」  店を出るとホロがそんなことを言ってくる。  ロレンスはホロの頭に手を置いて、言い返してやった。 「お前ほどじゃない。さて、残るは馬車の修理に点検と、道の情報を集めて……」  指折り数えていくロレンスを、子供のように見上げるホロ。  無視をすればきっと激怒《げきど》する。  肩《かた》を落として、諦《あきら》めた。 「それと、飯な」 「んむ。酒場だとなんと旅の情報も集められるんじゃからな。重要なことでありんす」  賢狼《けんろう》相手に、言い返すのは難しかった。  ロレンスが宿の階段を上っていると、ちょうど上から旅の商人が下りてくるところだった。  帽子《ぼうし》を軽く上げての挨拶《あいさつ》と共に、苦笑いを向けてくる。  その理由は当然わかる。  まだ日も落ちきっていないというのに、ロレンスが抱《かか》えるようにして運んでいるホロの顔は、真っ赤になっていたのだから。 「飲みすぎ食べすぎで足元がおぼつかなくなった賢狼様に、肩をお貸しするのはこれで何度目だと思う?」 「うー……」 「俺が高利貸しじゃなくてよかったな。もしも俺が高利貸しだったら、とっくにお前は丸裸《まるはだか》だ」  ずるずるとホロを引きずって、部屋にようやくたどり着く。  ベッドの上に寝《ね》かせて、三角巾《さんかくきん》やケープやらを脱《ぬ》がせてやるのもいつものこと。  こんなにも甲斐甲斐《かいがい》しく働いているのだから、高利貸しでなくともそのまま丸裸《まるはだか》にしたところで誰《だれ》に責められるだろう。  ロレンスは毎度のことそう思うのだが、一度だってそうしたことはない。  なにせ仰向《あおむ》けになって唸《うな》りながらも、ホロの顔はご満悦《まんえつ》のそれなのだ。 「まったく」  そう呟《つぶや》いて笑ってしまえば、ホロの頬《ほお》を指の背で撫《な》でるだけで満足だった。 「さて」  町に着くのが妙《みょう》に早かったこともあり、ホロが酔《よ》いつぶれるのもまた早かった。  外はまだ明るいし、木窓を開けていれば十分に蝋燭《ろうそく》なしで作業ができる。  ロレンスは机の上に財布《さいふ》やナイフ、それに地図を置いてのんびりと作業を始めることにした。  まずはナイフを点検し、刃《は》こぼれや柄《え》が緩《ゆる》くなっていないかを確認《かくにん》する。主に食事に使うものだが、長い旅路の中では人の皮膚《ひふ》を切り裂《さ》き、獣《けもの》の命を刈《か》り取ることもあった。  旅の途中《とちゅう》で最も命を救ってくれたものといえばこのナイフと言っても過言ではない。きっと二番目は神様へのお祈《いの》りだろう。  地図は当てになるかならないかと問われれば、目隠《め かく》しをするよりはまし、という程度の精度だが、ある程度の位置関係を把握《は あく》しておいて損はない。  特に、明日からは遠くを見通せない森の中の道を通ることになる。  賢狼《けんろう》を自称《じしょう》するホロがいるのだから森の中は大丈夫《だいじょうぶ》、と言えないことは過去の経験からわかっている。安心していられるのは、森の中で狼《オオカミ》に遭遇《そうぐう》した時のことくらいだろうか。  なにせホロの真の姿はロレンスすら優に一飲みにできそうな巨大《きょだい》な狼なのだから、そんなホロを側《そば》に従えていれば森を行く狼が恐《こわ》いわけがない。  その点、かなり気が楽になっているといえばそうだ。  一人で旅をしている頃《ころ》には、狼や熊《クマ》などの危険な獣が特に頻繁《ひんぱん》に現れる地域を通る時に、あれこれのまじないや験担《げんかつ》ぎに必死だった。  獣は金物の匂《にお》いが嫌《いや》だから鉛《なまり》でできたものを身にまとうだの、音を出していれば近づいてこないということで小さな鐘《かね》を一日中鳴らし続けたり、教会では特に高い寄付をしてお祈りをしてもらったりした。挙句《あげく》、その昔狼にすら説教をしたことで有名な聖人の名が書かれた護符《ごふ》を買ったりもした。  しかし、なにをしようと狼に襲《おそ》われる時は襲われるし、駄目《だめ》な時は駄目。  嫌なことや辛《つら》いこともあったが、いざその心配がなくなるとちょっと寂《さび》しい気すらしてくるから人間というものは身勝手だ。  とはいうものの、出会わないにこしたことはないし、あまりホロに頼《たよ》りきるのも申し訳ない。なにせホロは時折、自分が人ではないことについて、気にしているふうな素振《そぶ》りを見せることがある。狼《オオカミ》が出たからやれ倒《たお》してこい、とけしかけるわけにはいかないのだ。  だからというわけでもないが、ロレンスが最後に机の上に広げた財布《さいふ》の中身には、狼|除《よ》けのお守りとして使われる最も代表的なものがいくつもあった。  今日、町のあちこちで支払《し はら》いをするたびにつり銭として集めてきたシュミー銅貨と呼ばれるもの。  小さくて肉厚。縁《ふち》を削《けず》って銅を集めるには最適な貨幣《か へい》ながら、他《ほか》のそれのように模様が欠けるまで削られつくしているわけではなく、むしろそのほとんどが綺麗《き れい》な状態で保たれている。  その理由は、シュミー銅貨の模様にあった。  ロレンスは他の貨幣から選《え》り分け、一枚を手に取って眺《なが》めてみる。  赤褐色《せっかっしょく》のそれには、一匹《いっぴき》の獣《けもの》の姿が刻まれているのだ。 「なんじゃ、こんなもの集めておったのか」  その声に危《あや》うく貨幣を取り落としそうになる。  気配も足音もまったくなかった。  ホロが、酒|臭《くさ》いげっぷをしながらおぶさるように寄りかかってきた。 「ぬしもわっちらの素晴《すば》らしさにようやく気がついたようじゃな。んむ、よいことでありんす」 「わかったわかった。おい、危ないぞ」  ふらつくホロの手を取ってやると、ホロはにっこりと嬉《うれ》しそうに笑う。  たとえ酔《よ》っていようとも、ホロみたいな娘《むすめ》に満面の笑《え》みを向けられたら、こちらの顔まで赤くなってしまう。 「で、なんだ。水か?」 「んむ……喉《のど》が焼けるようじゃ……」  いつものことなので、ロレンスは椅子《いす》から立ち上がり、代わりにホロを座らせて水差しを取ってくる。  ホロに手|渡《わた》すと、豪快《ごうかい》にぐびぐびと飲んでいく端《はし》からこぼしている。  ホロ曰《いわ》く、狼には頬《ほお》がなく人のそれにはまだ慣れていないので仕方がない、とのことだが、おそらくそれは違《ちが》う。単純に、ホロががさつなだけだ。 「ふう……けふ」 「落ち着いたか?」 「んむ……なんだかえらく辛《から》い酒じゃったからな。喉《のど》が渇《かわ》いて……んぐ、んぐ」  言って、また飲むが、さすがにこぼす量があまりにびどい。  下男よろしく布巾《ふ きん》を当てているロレンスはようやく気がつく。  ぶどう酒の質の悪さを隠《かく》すために、生姜《ショウガ》をたくさん入れなければならないようなものを注文された腹いせなのだ。 「高い酒を頼《たの》んでも、こんなにこぼされたらもったいないからな」  ロレンスが言うと、ホロはとっくに酔《よ》いなど醒《さ》めているかのような目を向けてくるが、口の端《はし》をちょっとつり上げただけで、取り合うことはなかった。 「ほら、落ち着いたらちょっとどいてくれ。暗くなったら蝋燭《ろうそく》が必要になってしまう」  ホロは机の上とロレンスを見比べて、渋々《しぶしぶ》といった感じで立ち上がる。  ただ、ベッドに戻《もど》るつもりはなかったらしく、机の端によっこらせとばかりに腰掛《こしか》けた。 「なにをしておるんじゃ? わっちへの当てつけかや?」 「そう思うのは良心の呵責《かしゃく》があるからだろう、と言って欲しいのか」 「ふん。わっちゃあ無駄飯《む だ めし》食らいの穀《ごく》つぶしじゃからな」  水差しの水をもう一口飲んで、ロレンスのこめかみに突《つ》きつけてくる。  ロレンスはおとなしくそれを受け取って、机の上に置く。  憎《にく》まれ口《ぐち》が大好きな酔っ払《ぱら》いほどたちの悪いものはない。  挙句《あげく》、どこまで酔っているのかわからないような役者とくれば、深追いするのは自殺|行為《こうい》。  ロレンスは罠《わな》の奥深くに迷い込む前に、話を銅貨に戻す。 「明日、道の途中《とちゅう》で樵《きこり》たちの村を通りがかるからな。そこで売るためにな」 「……売る?」  ホロが訝《いぶか》しげに聞いてくるのも無理はない。  なにせ机の上に並べられているのは、他《ほか》ならぬ物を買うための貨幣《か へい》なのだから。 「そう。売るんだよ」 「じゃが……これは貨幣じゃろう」 「貨幣も売れる。古い時代……とはいってもお前がいつも言うほどじゃないが、貨幣は両替《りょうがえ》商と並んで細工師の軒先《のきさき》でも売られていた」  ホロは酒でちょっと潤《うる》んだ目をしながら、興味を引かれたらしく静かに手元の貨幣を一枚手に取った。 「伝説の王が発行した貨幣や、その着物の裾《すそ》に触《ふ》れればたちどころに病気が治る、と言われた聖人のいる修道院の領地で発行された貨幣などな。穴をあけて紐《ひも》を通したりして、首から下げるのが一般的かな。剣《けん》の柄《つか》に埋《う》め込んだり、というのも聞いたことがある」  ホロが手にしているのは船と櫓《ろ》が刻み込まれた、海沿いの国で発行されている貨幣だ。  裏、表と見比べて、自分の胸元《むなもと》に当ててみたりしている。 「それだとちょっと小さいが、もともと装飾《そうしょく》用に発行された貨幣なんかはもっと大きい。お前なら……このくらいの大きさのやつが似合いそうだけどな」  ロレンスが適当なのを一枚手に取ってホロの胸元に当ててやると、なんの変哲《へんてつ》もないくすんだ銀貨ながら、たちまちのうちに由緒《ゆいしょ》ある銀細工に見えてくるから不思議だ。  馬子《まご》にも衣装《いしょう》という言葉の逆で、ホロみたいな奴《やつ》がつければどんなものでもそれなりのものに見えてしまうのかもしれない。 「くふ。これ、穴あけてもいいかや?」  自分の胸元《むなもと》を見ながら嬉《うれ》しそうにホロが言うので、ロレンスは若干《じゃっかん》迷ってしまったが、心を鬼《おに》にして貨幣《か へい》を取り返す。 「穴をあけたら使えなくなってしまう」 「むう」 「お前の胸元には大事な麦があるんだろう? 貨幣と一緒《いっしょ》にぶら下げたら駄目《だめ》だ」  ロレンスに取り上げられた貨幣を寂《さび》しそうに見つめながら、そんな言葉に「ほえ?」と間抜《まぬ》けそうに首をかしげてくる。 「高利貸しを非難する説教にこんな一文がある。その行為《こうい》、畑に貨幣を蒔《ま》くようなものである」  間抜けそうに首をかしげてはいるが、一応は賢狼《けんろう》を自称《じしょう》するホロのこと。  考えを巡《めぐ》らせ始めると途端《と たん》に理知的な雰囲気《ふんいき》になる。  もっとも、酒の精に邪魔《じゃま》されて、早々に降参した。 「……その意味は?」 「貨幣は芽を出したり、花を咲かせたりしない。その上、貨幣は金属だから畑の土を駄目《だめ》にしてあらゆる作物を枯《か》らしてしまう。要するに、利子の否定と、金の悪徳を説いたものだ」 「ふむ」  頭の上で狼《オオカミ》の耳をひくひくと揺《ゆ》らしながら、ホロは納得《なっとく》したようにうなずいた。 「わっちの麦が枯れては困りんす」  ただでさえ貧相なその体つきも、とロレンスは思ったがさすがに口にしなかった。  命というものは、この世に一つしかない。 「それで、その貨幣はなぜ売れるのかや」  ホロが指差すのはシュミー銅貨。  狼の紋様《もんよう》が刻まれた、それ。 「これは、まあ……」  ロレンスは一瞬《いっしゅん》口ごもる。  そして、商人お得意の返答をした。 「刻まれた狼の紋様にあやかってな」 「ほう? なんじゃろうか。知恵《ちえ》などいかにもありそうじゃが」  一枚手に取り、掌《てのひら》の中で弄《もてあそ》びながら楽しそうに言う。  酒が入っているからというわけでもない機嫌《き げん》のよさは、当然、そこに刻まれているのが狼だからだろう。  旅人だって、故郷から遠く離《はな》れた異国の地でふとした縁《えん》で故郷の偉人《いじん》の顔が刻まれた貨幣《か へい》に巡《めぐ》り合えば、それだけで心温まることがある。  ただ、ロレンスは口を濁《にご》すばかり。  机の上でわっさわっさと機嫌《き げん》よく尻尾《しっぽ》が動いているのに、敢《あ》えて言う必要はない。 「のう、ぬしよ、なにかや?」  だから、そんな質問は、困るのだ。 「あるいは、勇気かや。さもなくば……幸運? いや、なにせわっちらのことじゃから……」  と、ホロはあれこれ一人で考えている。  そんなホロに言えるわけがない。  それが、狼除《オオカミよ》けのお守りだなどと。 「んむ? そういえば、これは樵《きこり》の村で売られるとか言っておったかや」 「あ、ああ」 「ということは……」  ホロが物事を考える時、ゆっくりと水に沈《しず》んでいくように思考に没頭《ぼっとう》していく。  ロレンスは、顔を背《そむ》け、目を閉じるしかない。  賢狼《けんろう》という二つ名は伊達《だて》ではなく、やはり予想どおりに、その可能性に気がついたらしいのだから。  ぱたり、とホロの尻尾が動きを止めて、それ以上に静かに、ホロは弄《もてあそ》んでいた貨幣を机の上に置いた。 「……ん、まあ、そんなことではないかと思ったんじゃ」  その言葉は、ロレンスを気遣《き づか》うように。  狼と人。  対立するのは仕方がない、とばかりに。 「その、なんだ。盗賊《とうぞく》除けのための貨幣だってある。だから」 「ぬしよ」  ホロは寂《さび》しそうに笑って、ため息を一つ。 「気遣われると余計に寂しくなってしまいんす」  言って、ひょいと机から下りてホロはベッドに戻《もど》っていく。声をかけようとしても遅《おそ》い。その体はするりと毛布の下に入り、遅《おく》れて尻尾もその下に納まった。  迂闊《う かつ》だった。  わかっていたことなのに、と思いながらロレンスはため息をつき、机の上に選《え》り分けた貨幣を集め別々の袋《ふくろ》に入れようとしていた。  ふと思いついたのは、そんな瞬間《しゅんかん》だ。 「そうか。だったら」  と、椅子《いす》の背もたれに肘《ひじ》を載《の》せ、ロレンスが後ろを振《ふ》り返ると、ホロも何事かとこちらを向いた。 「いっそのこと、お前がいるんだから、狼除《オオカミよ》けの道具でも作って売ったら大儲《おおもう》けできるんじゃないのか?」  開き直りは時として苦笑を生む。  そして、苦笑であれなんであれ、笑顔《え がお》は笑顔で気分や空気を晴れやかにすることが多い。  ホロは耳をひくひくと動かし、「で?」と楽しそうに寝返《ね がえ》りを打ってこちらを向《む》いた。 「例えば、どんなのかや」  その見た目よりも幼いわがままを言うこともあれば、ロレンスだってできないくらいの潔《いさぎよ》さで仲直りのわずかな機会を逃《のが》さないこともある。  旅の相手としてこれ以上楽しい奴《やつ》もいない。 「そうだな」  と、ロレンスは視線を巡《めぐ》らせた。 「嫌《いや》な音を出して撃退《げきたい》、とかはどうだ」 「甲高《かんだか》い音を出されると嫌な時もあるが……それで追い払《はら》うよりも、注意を引くほうが多いような気がしんす」  至極《し ごく》まっとうな意見だ。 「じゃあ、神様へのお祈《いの》りは?」 「その神様が毎日の餌《えさ》をくれておるのならば、まだしも」 「金物の匂《にお》いが駄目《だめ》というのは?」 「金物」  ようやく検討に値《あたい》するものが出てきたとばかりに、ホロは体を起こし、目を閉じて首を捻《ひね》る。 「それは効果がありそうじゃな」 「じゃあ、鉛《なまり》の前掛《まえか》けとか効果ありそうか」  実際にそんな装備をしている商人を見たことがある。 「んーむ」 「たとえば、鎧《よろい》に身を包んだ騎士《きし》や傭兵《ようへい》は襲《おそ》われにくいとよく言われる」 「それは、連中が長い槍《やり》を持っておったりするからじゃろう? あれはわっちらでも難儀《なんぎ》する。剣《けん》の場合は、持っておるかどうかわからんから飛びかかってしまうんじゃろう」  いちいちもっともな答えだ。  ロレンスは、素直《す なお》に発想してみた。 「なら、単純に嫌な匂いとかのほうがいいか」 「そうじゃな。香草《こうそう》とかにはきつい匂いがありんす。そっちのほうがよほど嫌じゃ」  即座《そくざ》に複数種類の香草が頭に浮かぶ。  中には安いものもあるし、もしかするともしかするかもしれない。  時刻はそろそろ日が暮れそうだが、香草《こうそう》なら店じまい途中《とちゅう》であっても軒先《のきさき》から匂《にお》いでわかる。 「ちょっとどうだ。酔《よ》い醒《ざ》ましがてら」 「む、う、今からかや?」  ホロは驚《おどろ》いて、それから思いなおしたように、穏《おだ》やかに笑った。 「ま、いいじゃろ」 「よし」  ロレンスが荷物をまとめ椅子《いす》から立ち上がるのと同時に、それを笑って眺《なが》めるホロもベッドから下りて立ち上がる。 「その代わり、ゆっくり、の?」  ホロは、ロレンスの手を取りながらそう言ったのだった。  空は西のほうが赤く、東のほうはだいぶ青くなってきていた。  道行く人たちは口元まで襟巻《えりま》きに沈《しず》め、身を縮めながら今日の最後の用事をすませたり、帰宅の準備を始めたりしていた。  つい先ほどまでホロが飲んで騒《さわ》いでいた酒場では、ちょうど看板娘《かんばんむすめ》が軒先に獣脂《じゅうし》のランプをぶら下げているところで、こちらと目が合うとにこやかに手を振《ふ》ってきた。 「……」  振り返すとホロがたちまち握《にぎ》る手に力を込めてくるが、お決まりの冗談《じょうだん》といえばそうだ。  それに、看板娘も旅の商人に愛想以上のものを振りまく暇《ひま》などない。  次から次へと客は来るし、店の中から呼ばれたようで看板娘はさっさと引っ込んでしまった。 「どちらかというと、お前の飲みっぷりに対しての愛想だったと思うんだが」 「ほう。ならば手の代わりに空いたジョッキを振りにいかんとな」 「では、俺は軽くなった財布《さいふ》を振ればいいんだな?」 「くっく、そう、そのとおり」  そんな馬鹿《ばか》な会話をしながら、夕暮れ時の町を歩いていく。  ロレンスは夏の夕暮れ時は物哀《ものがな》しくて好きではないのだが、冬の夕暮れ時は逆だった。  寒くて乾《かわ》いた空気の中、埃《ほこり》まみれになって働いたあとには、暖色の灯《あか》りが満ちた暖かい部屋の中にうまい酒と食べ物が待っているからかもしれない。  まったくもってホロと同じような発想だが、ついつい酒場に行って財布の紐《ひも》を緩《ゆる》めてしまいがちなのは、きっとそのあたりにも原因があるに違《ちが》いない。  ロレンスはそんなことを思いながらホロと共に道を行き、一|軒《けん》の店にたどり着く。  軒先に、薬商であることを示すすり鉢《ばち》をかたどった看板がぶら下がっていた。  香辛料《こうしんりょう》や香草|一般《いっぱん》は、大抵《たいてい》の町で薬屋の領分なのだ。  乾燥《かんそう》した怪《あや》しげな草が軒先《のきさき》に山と盛られ、店の中にも所狭《ところせま》しと籠《かご》に入った草が並べられている。  ただ、店の奥では主人が背を丸めてあれこれしまっている最中で、店先に立ったロレンスたちに気がつくと、白い息を少し見せながら申し訳なさそうに笑っていた。 「こんな時間にお客さんかい。もう少しで店じまいなんだがね」 「ちょっとだけ見せてもらいたいのですが」  棚《たな》に置かれた瓶《かめ》や小さな樽《たる》をごそごそと動かしてから、主人は返事をする。 「んー……うん、まあ、長くなければね」 「ありがとうございます」  ロレンスが笑顔《え がお》で礼を言ったあと、主人が奥の棚に顔を突《つ》っ込んだのを見て、隣《となり》のホロが耳打ちしてくる。 「今、わっちを見て言っておったな」 「町娘《まちむすめ》に引っかかった馬鹿《ばか》な行商人が、娘のために匂《にお》い袋《ぶくろ》を買ってくれると思ったんだろう」  ロレンスが肩《かた》をすくめると、ホロは忍《しの》び笑い。 「いい匂いを貰《もら》っても、腹が減るだけでありんす」 「だと思ったよ」  そんなやり取りをしつつ、店先に並ぶ香草を一つ一つ手に取って香《かお》りを嗅《か》いでいく。  黒い草、青い草、深い緑色の草、赤い草に黄色い草。  花を乾燥《かんそう》させたものや実を乾燥させたものまであるし、主人に名前を聞けばロレンスも初めて聞くような名前のものがたくさんあった。  ホロはといえば、「硬《かた》い牛の料理に多い。質の悪い酒に多い。真っ黒なパンに多い」と匂いを嗅ぎながら評していく。この手の匂いのきついものは、基本的に料理の味を良くするためでなく、その逆でまずさを消すためにある。ホロは大方、嫌味《いやみ》や皮肉でそんなことを言っているのだろう。  なんにせよ、ホロの鼻は主人が途中《とちゅう》で気がついて目を丸くするくらいに匂いを嗅ぎ分けていたが、種を知っている者からすれば驚《おどろ》くことでもない。  もっとも、本当に驚いてしまったのは、ホロの鼻が素晴《すば》らしいものだとわかるや、店主が奥からいくつもの小さい籠を持ってきたことだ。 「是非《ぜひ》お願いしたいことがあるんだがね」 「むう?」  ホロはロレンスを振《ふ》り向いてから、主人のほうを見た。 「これとこれ、あとはこっちとこっち。これなんかもそうなんだが、最近|偽物《にせもの》が出回っていると噂《うわさ》の品でね。私は薬を商《あきな》って三十年だが、時折偽物を掴《つか》まされちゃあ泣きを見るんだ。どうも訓練した犬を使って偽物《にせもの》に近い匂《にお》いの草を探してくるらしいんだが……ちょっとどうだろう。嗅《か》ぎ分けてもらえないかね」  どんな商《あきな》いにも苦労はあるものだ。  ホロはあからさまに嫌《いや》そうな顔をしていたが、ロレンスは抜《ぬ》け目《め》なく主人にこう尋《たず》ねていた。 「この娘《むすめ》はさる邸宅《ていたく》で働いてたことがありましてね。そこの女主人様が大の香草《こうそう》好きでして。自然と鼻を鍛《きた》えられたようなのですが、実は私はそこを見込んで連れ出しまして」  迂遠《う えん》な言い方だが、相手も素人《しろうと》ではない。  すぐさまうなずいて、「ご心配なく」と口を開く。 「偽物かどうかわかるようでしたら、このくらいは礼をさせていただいても」  計量用の天秤《てんびん》に重りを載《の》せて、片方に小銭《こ ぜに》を載せる。  商談成立だ。 「じやあ、ホロ」 「う……む……白い小麦パン」  朱《しゅ》に交われば赤くなる。  ホロもきっちり報酬《ほうしゅう》を要求し、ロレンスはうなずいた。  店主が手にしているのは高価な香草のようで、ロレンスに提示した金額は結構なものだった。  これなら小麦パンをホロに買ってやってもおつりがくる。  予定外の収入ならば、使いきったって構わない。 「そうだな」  と、ロレンスが一人|呟《つぶや》くと、主人から一つまみの草を貰《もら》って匂いを嗅いでいたホロが顔を上げた。 「どうしたかや?」 「ああ、いや。ちょっと用事を思い出した。すぐ戻《もど》ってくるから、ここにいてくれ」  ホロは不服顔だったが、主人としては嗅ぎ分けてくれるホロさえいればなんでもいいようだった。  ロレンスはホロの肩《かた》を軽く叩《たた》いて、返事を待たずに歩き出す。  家路につく者たちの姿が多くなり始めた町の中を早足に歩き、一|箇所《か しょ》を目指す。  ちゃり、と懐《ふところ》で貨幣《か へい》が小さな音を立てた。  ロレンスが用事をすまして戻ると、店先でホロと主人が酒を飲んでいた。  薬商に栄光あれ、とかなんとか言いながら飲んでいるので、多分嗅ぎ分ける作業は終わったのだろう。  主人が先にロレンスに気がつき、店先に出てくるやロレンスに抱《だ》きつかんばかりの笑顔《え がお》でこう言った。 「これはこれは。娘《むすめ》様の鼻は実に正確でした。偽物《にせもの》を酒に浸《ひた》したらたちまち嘘《うそ》が剥《は》がれましてね。いやあ、大損するところでしたよ!」 「それはよかった。しかも、お酒まで頂いて」 「いえいえ。私が避《さ》けられた損に比べれば……そう、もちろんお礼も弾《はず》ませていただきますよ」  と、いそいそと店の奥に入っていく。  ホロは得意げな顔で酒を飲み、ただでさえ飲んで酔《よ》っ払《ぱら》ったあとだっただけあって、すでにちょっと目つきが怪《あや》しい。 「お前、飲みすぎだろ」 「むう? 働いたあとじゃからな。儲《もう》けを懐《ふところ》にしまうだけのぬしとは違《ちが》って、わっちゃあ疲《つか》れてしまいんす」  置いてきぼりになったことを怒《おこ》っているのか、ロレンスの胸を突《つ》つきながらの目つきは意外に本気だ。  ただ、ロレンスは謝る代わりにホロが口の端《はし》につけっぱなしの香草のかけらを取ってやるだけ。  香《かお》りを嗅《か》げば、ぶどう酒に合うと言われる香草《こうそう》だった。 「その様子だと、当初の目的は果たす暇《ひま》なんてなさそうだな」  ロレンスの言葉に、ホロはぐびぐびと酒を飲んでから、忌々《いまいま》しそうに言葉を紡《つむ》ぐ。 「大体、狼《オオカミ》が嫌《いや》がる匂《にお》いを探すためにはわっち自身嫌な匂いに鼻を近づけなければならんのじゃろう? どうしてそんなことをしなければならんのかや」  酔っているせいか、それともわざと言っているのかはわからないが、置いてきぼりの件を相当怒っていることだけはよくわかる。  ロレンスは小さくため息をつき、ホロの手を取ってジョッキを取り上げた。  それはホロの予想外の対応だったらしく、不思議なものでも見るかのように、されるがままに自分の手からジョッキが離《はな》れていく様をぼんやり眺《なが》めていた。 「酒は?」  そして、そんなことをぼんやりと呟《つぶや》く。  だいぶ間抜《まぬ》けで可愛《か わい》かったのだが、ロレンスは返事をする代わりに懐からあるものを取り出した。  ホロを置いてきぼりにして、本当に忘れていた用事をこなしていたわけではない。  ロレンスが向かった先は、両替《りょうがえ》商や金細工師、あるいは銀や鉄を扱《あつか》う細工師の集まる場所だった。  もうほとんどが店じまいの準備をしているところに、無理を言って作ってもらってきた。  簡単な加工だったので、ということもある。  ロレンスが取り出して、ホロに手|渡《わた》したそれ。  穴をあけて、紐《ひも》を通したシュミー銅貨だった。 「これ、は……?」 「銅貨一枚くらいならな。それに、こういう凜々《りり》しい絵柄《えがら》のほうがお前に似合いそうだから」  ホロは銅貨をじっと見て、それからロレンスを見る。  酒のせいか目が潤《うる》んでいるが、それからにへらと笑った笑顔《え がお》を、きっとロレンスはずっと忘れないだろう。 「じゃが」  と、ホロはロレンスに向かって言う。 「こんなのをつけておったら、わっちゃあ旅の途中《とちゅう》で仲間に会えなくなるかもしれんじゃないかや」  狼除《オオカミよ》けのお守りとしてのシュミー銅貨だから、ホロの言い分もわからないではない。  ただ、ロレンスはその銅貨からたれ下がる紐《ひも》を手に取って、ホロの首に掛《か》けながら、こう言った。 「町中だけでつけてくれればいい」  されるがままになっていたホロは、髪《かみ》の毛を通すためにちょっとホロに近づいたロレンスの顔に向かって、質問を向ける。 「どういうことかや?」  酒にまじってロレンスの鼻をくすぐるのは、香草《こうそう》とも香油とも違《ちが》う、ホロのほのかな甘い匂《にお》い。  大胆《だいたん》な気分になるのに、これ以上のものはない。 「町中で、他《ほか》の狼《オオカミ》が寄ってこなくなる」  ジョッキを先に取り上げておいてよかった、というのはホロが体を強張《こわば》らせるくらいに驚《おどろ》いたからだ。  三角巾《さんかくきん》がずれ落ちそうになるくらい耳をピンと張ったあとに、ホロは我慢《が まん》できなかったように吹《ふ》き出し、体を折って笑い始めた。  ちょうど報酬《ほうしゅう》を持って店から出てきた店主はそんな様子に目を丸くしている。  ロレンスがそちらに苦笑いを向けるのと、ホロが体を起こしてロレンスの腕《うで》を取るのはほとんど同時だった。 「ぶふっくっくっく……たわけじゃな、本当にたわけじゃ」 「なかなかのものだったろ?」 「くっくつくっ……」  ホロは続けて大笑いし、体を起こすとこう言った。 「今日一番で臭《くさ》かった」 「他の狼が近寄らないくらいに?」  ホロはにっと笑う。  ホロの笑いように驚いている店主から報酬を貰《もら》い、ホロが飲んだ分の酒の代金を払《はら》った。  主人は予想できていたようにホロを雇《やと》いたいと申し出てきたが、こちらは当然断っておいた。  ロレンスはホロを連れて歩き出す。  まだ笑っているホロはしっかりとロレンスの腕にしがみつき、片時も離《はな》さない。  空で瞬《またた》き始めた星を見て、ロレンスはふと思い出して聞いてみた。 「そうだ、そんなに臭かったのなら」 「んむ?」 「泥炭《でいたん》にしたところでもう気にならないだろ?」  涙《なみだ》を滲《にじ》ませて大笑いしていたホロは、もう一度小さく吹き出して、深呼吸をする。 「ぬしには敵《かな》いんせん」  胸元《むなもと》でシュミー銅貨が揺《ゆ》れている。  凜々《りり》しい顔つきの狼も、さすがに呆《あき》れてため息をつきそうな夕暮れのことだった。 [#地付き]終わり [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  振《ふ》り向くと、荷馬車からだいぶ離《はな》れてしまっていた。  野兎《ノウサギ》の親子をからかっていたら、いつの間にか夢中になっていたらしい。  これではどちらがからかわれているのかわからない。  ばっさばっさと腰《こし》に巻いた大きな一枚布を払《はら》って、遊びは終わりだ、と野兎に向かって笑ってやる。すると、野兎の親子は互《たが》いに顔を見合わせてから、ひょっこひょっこと歩いていった。 「さて」  と、こちらも歩いて巣《す》に戻《もど》ることにする。  馬が引いて、車輪がついていて、木と鉄でできた一風変わった巣だ。  時折荷物を積んで一杯《いっぱい》になるが、ここのところは大した物も積まず、ちょうどよい具合になっている。荷物が多すぎても狭《せま》くて難儀《なんぎ》するが、少なすぎても寒くて困ってしまう。  木箱と木箱の間に粗皮《あらかわ》を敷《し》けば両|脇《わき》を囲まれていて安心できるし、いい風|除《よ》けにもなる。そこに穀物などが詰《つ》まった袋《ふくろ》を枕《まくら》に、たっぷりの毛布を準備する。あとは横になって毛布の下で丸くなり、木箱の木目をぼんやり数えていてもいいし、空を眺《なが》めていたっていい。  今日はこんな陽気だから、毛布も温められてふかふかになっていることだろう。  そこに包《くる》まることを想像したら、昼飯後ということもあってついつい欠伸《あくび》が出てしまう。  人の口には頬《ほお》があるので若干《じゃっかん》窮屈《きゅうくつ》ではあったのだが、伸《の》びをする時に両|腕《うで》を高く上げられるのは人ならではだ。  何百年と慣れ親しんだ狼《オオカミ》の姿こそ本来の自分、という感覚こそあるものの、あれこれ不便な人の姿もそれはそれで嫌《きら》いではない。なにより、人の姿にはその身を着|飾《かざ》るという変わった発想がある。狼であっても当然毛並みを気にするが、人の着飾るという行為《こうい》はその比ではない。  それは狼でたとえるなら、その日の気分によって毛の色を変えたり模様を変えたりするようなものだろう。楽しくないわけがない。  ただ、一番の楽しさは、やはりそれを誰《だれ》かに見せてあれこれ反応を貰《もら》うことだ。  その点、旅の連れは申し分ない。襟巻《えりま》き一つ、ローブ一つで大|騒《さわ》ぎだ。  問題点といえば、着飾るためには金がかかるというところだろう。賢狼《けんろう》と呼ばれた自分が、人の世の金などというものを気にするのは名折れかとも思うが、人の姿をして人の連れと共に旅をしているのなら致《いた》し方《かた》ない。  しかも、連れは行商人という商《あきな》いに従事する者であり、その金に対する執着《しゅうちゃく》といったら呆《あき》れてしまうほどだった。この草原での寄り道だって、天気がよくてちょうど昼飯時だからと言ってはいたが、理由が他《ほか》にあるのは見え見えだった。  馬に草を食べさせて餌《えさ》代を節約するのと、つい先日|訪《おとず》れた町で見たことが気になって仕方がないのだ。  昨日の夜からずっと上《うわ》の空《そら》で、話しかけても生返事ばかり。つい先ほどの昼飯だって、目がずっと遠くを見つめていて、チーズを二かけらばかり盗《ぬす》み食いしても気がつかなかった。  連れがなにを考えているかといえば、町で見た貨幣《か へい》と毛皮のことらしい。  貨幣も毛皮も人の世に流通するものは呆れるほど種類が多いのだが、その交換《こうかん》比率についてどうにも引《ひ》っ掛《か》かりがあるらしかった。つまり、黒い毛皮を白い銀貨に交換して、白い銀貨で茶色い毛皮を購入《こうにゅう》して、その茶色い毛皮を赤い銅貨に再度交換して、最後に赤い銅貨で黒い毛皮を手に入れると、得が出るかもしれないらしいのだ。  それで、昨日の夜からずっと数字をいじくりまわしていた。  人の世では旅をするにもなにをするにも金がいることはわかっているし、連れはそもそも金を稼《かせ》ぐために旅をしているのだから、こちらが怒《おこ》る道理はない。  ましてやそんな涙《なみだ》ぐましい努力をしている連れに向かって、腹の足しにもならないものを買ってくれ、などと言うのはちょっと気が引けた。  もっとも、こちらが荷馬車に戻《もど》ってきても、ほとんど気がついていない様子なのには、若干《じゃっかん》尻尾《しっぽ》が膨《ふく》らんでしまったのだが。 「ぬしよ、いつまでここにおるのかや」  毛布を払《はら》いながら、そう尋《たず》ねた。  少しきつめの口調で言ったのが功を奏したのか、連れはようやく木の板から顔を上げた。どうやら昼飯もろくに食べず、削《けず》った木の枝を片手に、蝋《ろう》を塗《ぬ》った板を引《ひ》っ掻《か》いて延々計算していたらしい。 「ん……おっと、もうこんな時間か」  どんな場所にいても、空を見上げるだけで即座《そくざ》に時間がわかるらしいのはさすが人の知恵《ちえ》。  慌《あわ》てて板や木の枝を片づけ、口にパンを詰《つ》め込んでいる。  チーズを二かけら盗《ぬす》み食われていることになど、まったく気がついていないらしい。 「散歩はもういいのか?」  しかし、はたいた毛布を敷《し》きなおし、いざその下に包《くる》まりでもしようかと思っていたら、連れはそんな言葉をひょいと向けてきた。  見ていないようで、きちんと見ていたようだ。 「あんまり遠くに行ったらぬしが不安がると思っての」  連れは暢気《のんき》に笑っているが、そんな間抜《まぬ》けな顔を見ていると、本当に少し雲隠《くもがく》れしてやろうかと意地悪なことを思ったりもする。  きっと、大変な醜態《しゅうたい》を晒《さら》してくれるに違《ちが》いない。  ただし、間抜けさに至っては、水が嫌《きら》いなくせに池の魚を獲《と》ろうとする猫《ネコ》のようなもの。  言うに事欠いて、こんな言葉を返してくる。 「なに、どんなに遠くに行ったとしても、腹が減ったらきっと帰ってくるだろうからな」  怒《おこ》るのも馬鹿《ばか》馬鹿しくて笑顔《え がお》を見せてやったら、阿呆《あ ほう》の連れはうまい冗談《じょうだん》を言えたとばかりに得意げだった。  ここまでずれていれば、もういっそのこと褒《ほ》めるに値《あたい》する。 「さて、じゃあ馬をつなぎなおして、そろそろ出発するか」  と、連れは御者《ぎょしゃ》台から立ち上がり、放していた馬のほうに歩いていった。  こちらは荷台の縁《ふち》に頬杖《ほおづえ》をついて、そんな連れを眺《なが》めていた。  お人好《ひとよ》しで小心者なくせに、見栄《みえ》っ張《ぱ》りで変なところでは自信家の連れ。  金などというものを命の次に大事にしているところがあって、時折不気味に感じることもある。  しかし、稼《かせ》いだ金を溜《た》め込むかと思えば、妙《みょう》なところで気前の良さを見せてくれたりもするので、ついつい尻尾《しっぽ》を振《ふ》ってしまう。  連れはこちらが食い物で釣《つ》られていると思っている節があるが、いくら人が料理した食い物がうまいからといって、賢狼《けんろう》と呼ばれた自分がそんな浅はかなことで我を忘れると本当に思っているのだろうか。  腹が減ったら帰ってくるなどと、そんな馬鹿なことがあるものか。  自分が帰ってくるとすれば、それは一人で飯を食べるのが嫌《いや》だからだし、飯を食わせてもらって尻尾がついつい揺《ゆ》れてしまうのは、連れが自分のために大事な身銭《み ぜに》を切ってくれるからだ。 「たわけが……」  連れは草を食《は》んでいた馬に不機嫌《ふ き げん》そうに頭を振られ、右に左にとたたらを踏《ふ》んでいる。  あれで自分のことを冷静|沈着《ちんちゃく》なる人の世の狼《オオカミ》、とでも思っているところがあるのだからお笑い種《ぐさ》だろう。羊のくせに、と呟《つぶや》いて、荷台の縁《ふち》に頬《ほお》をつけた。  静かで、暖かい日差しがあって、間抜《まぬ》けな連れが視線の先にいる。  なんの不足も、不満もない。  不覚にも勝手に口元が微笑《ほほえ》んでしまい、そんな自分がおかしくてさらに笑顔になってしまう。 「たわけはわっちのほうかもしれんな」  呆《あき》れるように呟いて、視線を地面に落とした直後だった。  草の間に、なにか妙《みょう》なものが落ちていた。 「なんじゃ?」  体を乗り出して見てみるが、なんだかよくわからない。  結局荷台から降りて手に取ってみれば、わっか状の革紐《かわひも》と、そこにくくりつけられた、金属製の獣《けもの》の顔だった。 「なんじゃこれは」  呟きながらしげしげと眺《なが》めていると、連れの声が聞こえてきた。 「どう、どう」  久しぶりの自由を満喫《まんきつ》していた馬は、邪魔《じゃま》されてよほど腹が立ったらしい。  真っ黒い大きな瞳《ひとみ》と目が合ったが、八つ当たりに近い覇気《はき》をぶつけられた。  ただし、逃《に》げるならいくらでもその機会はあった。  要するに連れはなめられているのだろう。  いい気味だった。 「ほら、暴れるな。これをつないで……ああ、わかったから。よっと」  それでも連れも慣れたもので、いなしながら手早く馬をつなぎとめてしまう。  いつも完璧《かんぺき》な者がたまに間抜けなことをするのも愛嬌《あいきょう》があっていいが、いつも間抜けな者がたまに手際《て ぎわ》のよさを見せるのもなかなかのものだと思う。  しかし、やれやれとため息をついているところを後ろから馬に鼻先で小突《こづ》かれている様は、やっぱりいつもの連れだった。 「まったく……さて、出発するぞ……と。どうした?」  てっきり荷台で毛布に包《くる》まっているとでも思ったのだろう。拾ったものがなにか聞いてみようかとも思ったが、ちょっと思うところがあって結局聞かなかった。  曖昧《あいまい》に返事をして、車輪に足をかけて荷台に上がる。  連れも特に気にしなかったようで、御者《ぎょしゃ》台に座ると手綱《た づな》を握《にぎ》って旅を再開した。  ごとごとと揺《ゆ》れる荷馬車の荷台の上で、毛布の上に寝《ね》っ転がりながら、拾ったものを改めて取り出して見た。  人の世では、聞いたこともないような石や金属がたくさん出回っているが、これはどうやら見なれた鉛《なまり》でできているらしい。親指の頭ほどの大きさで、犬か狐《キツネ》か、さもなくば不細工な狼《オオカミ》のような獣《けもの》の顔をかたどっていた。  長い時間を経ているらしく、彫《ほ》りは削《けず》れて全体的に丸くなっているし、細かい部分は黒くくすんでいる。それでも、そんな使い古された感じが、逆に趣《おもむき》を感じさせるような気がしないでもない。  この賢狼《けんろう》には、ぴかぴかのものよりも、どちらかといえばそんな風格と趣のあるもののほうが似合っているだろう。せっかくわっかになっている革紐《かわひも》がついているのだし、身につけて連れ反応を楽しむのもありかもしれない。  そう思って、まずは手首に巻いてみると、紐が長すぎるうえに若干《じゃっかん》不恰好《ぶ かっこう》だった。次に首に掛《か》けようかと思ったが、すでにそこには麦|袋《ぶくろ》がある。  ならばどこにしようか、と思って気がついた。  人が髪《かみ》の毛を細い帯でくくっていることがあるくらいなのだから、狼ならばこうしたっておかしいこともあるまい。  ちょっと革紐が長すぎたが、軽く縛《しば》って調節するとよい感じに収まった。  鉛の部分が親指の頭ほどの大きさということもあって、悪くない見栄《みば》えだった。  尻尾《しっぽ》を紐でくくるなどと、森や麦畑にいたら決してしなかった発想だ。  立ち上がり、尻尾の中ほどで揺《ゆ》れる飾《かざ》りを追いかけて、子犬のようにその場でくるりと回ってしまう。 「んふふふ」  思わぬ拾い物だった、と顔をほころばせていた時だった。 「ああ、そうだ、お前にちょっと聞きたいことがあったんだが」  と、連れが御者《ぎょしゃ》台からこちらを振《ふ》り向いた。  折しも体を捻《ひね》って自分の尻尾を眺《なが》めていた瞬間《しゅんかん》で、隠《かく》しようもない。  それに、元々連れに見せるためだったので、「なにをしてるんだ?」ときょとんとしている連れに向かって、開きなおってこれ見よがしに尻尾を振った。 「どうじゃ? なかなかと思わぬかや」  腰に両手を当てて、いつだったか町で見たような踊《おど》り子《こ》の娘《むすめ》のようにくるりと回る。  連れの視線は尻尾に釘付《くぎづ》けだった。  言葉もないらしい。 「あ、ああ、いいと思うが……」  が?  またぞろ素直《す なお》にいいと言うのが悔《くや》しくて、なにか憎《にく》まれ口を叩《たた》こうとでもいうのだろうか。  まったく可愛《か わい》い雄《おす》ではないか、と思っていたら、連れはこんなことを言ってきた。 「それ、どうしたんだ?」 「んむ? そこいら辺で拾いんす」  改めて自分で見てみても、やはりよく似合っている。  濃《こ》い茶色と毛先の白さの中で、黒に近いくすんだ灰色がよい存在感を示している。  ふりふりと尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしていたら、しばらく妙《みょう》な顔でこちらを眺《なが》めていた連れは、「そうか」とだけ言って前に向きなおってしまった。  町娘《まちむすめ》たちの仕草を真似《まね》て小首をかしげたりすると、途端《と たん》に平静を失う連れのこと。  その妙な様子は、この飾《かざ》りがよほど似合っていることの証左だろう。  むふー、と鼻からため息をついて、ひょいと御者《ぎょしゃ》台のほうに飛び移った。 「で、ぬしはなにを聞きたかったのかや?」  隣《となり》に座ると身長差があるので見上げる格好になる。  大きな狼《オオカミ》の姿では、多くのものが視線の下にあった。  そのせいもあってか、見上げる格好になるのはなんだかそれだけで甘えているような感じがしてしまって最初はこそばゆかったが、今となってはお気に入りの格好だ。  それで連れの挙動が不審《ふ しん》になるのであればなおのこと。  にやにや笑うようなことはせず、精一杯《せいいっぱい》に仔《こ》のような無邪気《む じゃき》な笑顔《え がお》を向けてやる。連れがこちらをちらりと横目で見て、戸惑《と まど》いを必死に隠《かく》そうとしているのがありありとわかる。  飯と昼寝《ひるね》の次に楽しい時間といえば、これだ。  にこにことしていると、咳払《せきばら》いを一つ挟《はさ》んだ連れが、ようやくのことで口を開いた。 「ごほん。ああ、いや、なんてことはないんだが……」  言葉の途中で、ちらりと尻尾に視線を向けてくる。  わざとやっているのだとしたら、ころりと参ってやってもいい気がしてくる。 「昨日までいた町。あそこでの毛皮の質についてだ」 「ふむ」  どうやら、金儲《かねもう》けの糸口を掴《つか》んだらしい。  連れが儲けてくれれば、うまいものも食えるし、なにより機嫌《き げん》がよくなってくれる。  別に媚《こ》びる気もないが、一緒《いっしょ》に旅をするのなら笑顔があったほうがいい。  しょうがないな、とばかりにこちらも咳払いをして、「ふむ」と言ってやる。  すると、連れはあの毛皮の質はどうだったか、この毛皮の質はどうだったか、と矢継《や つぎ》ぎ早《ばや》に尋《たず》ねてくる。人は目で見て手で触《さわ》って毛皮の質を確かめようとするが、こちらから言わせれば良し悪しなど鼻をちょっとひくつかせればたちどころにわかるものだ。  あれは良かった、これは悪かった、などとあれこれ答えていくたびに、連れの意識が目の前の自分から、記憶《き おく》の中の商品に向けられていくのがよくわかった。  最後の質問を終えた直後など、こちらに礼も言わず黙《だま》り込んでしまった。  なんと無礼な奴《やつ》、とつい思ってしまうが、真剣《しんけん》になにかを考えている連れの顔は嫌《きら》いではない。やれやれと思いながらそんな横顔を眺《なが》めていたら、ふっと連れは何かに思い当たったように、荷台のほうを向いて手を伸《の》ばす。  膝《ひざ》の上に置かれたのはおびただしい計算の跡《あと》が刻まれた蝋《ろう》を塗《ぬ》った板で、ぶつぶつと何事かを呟《つぶや》いて、「やはりそうか!」と突然《とつぜん》叫び声を上げた。  人は鼻も悪いが耳も悪く、時折平気で大声を出すのでたちが悪い。  自分のみならず馬も驚《おどろ》いていたが、連れは一向に気にすることもなく、乱暴に板を荷台に向かって放《ほう》り投げると、手綱《た づな》を引いて馬を止めた。 「……どうしたんじゃ?」  まだ耳がちょっとおかしく、猫《ネコ》のようにぐにぐにと手で耳の付け根を押しながら尋《たず》ねると、連れの顔はげんなりするほど明るかった。 「やはり相場に隙《すき》があった。これは大|儲《もう》けができるぞ!」  来た道を戻ろうとする連れの顔は、歯も生え揃《そろ》わない子犬のようだった。  連れの側《そば》にいて、商《あきな》いの仕組みも多少はわかっているつもりだ。  ただ、あれこれと品物を買ったり売ったりを続けていって、最初の品物に戻《もど》ったらいつのまにか利益が出ているなんてことが本当に起こりうるのだろうか。  連れの話では、起こりうるらしい。 「大きな買い物に細かい金額の貨幣《か へい》を山ほど出したら嫌《いや》がられるようにな、小さい買い物で高額の貨幣を出すとこれもまた嫌がられる。すると、それぞれの品物に見合った貨幣を渡《わた》して買い物をすることになる。だが、毛皮は毛皮同士で交換《こうかん》されることもあるし、貨幣だってそうだ。要するに」 「その交換の際に、全体で見ると不合理なことが起こる、というわけかや」 「そうだ。なんべんも計算してみたが、やはり間違《ま ちが》いない。町の中で売り買いするだけで二割から三割の儲けになるぞ。素晴《すば》らしい商売だ!」  実際にすごいことなのだろうが、連れがあまりにも興奮しているのでなんだか興醒《きょうざ》めしてしまう。それに、せっかく尻尾《しっぽ》につけた飾《かざ》りも結局まだきちんと褒《ほ》めてもらっていない。  しかし、元々同時に二つのことを気にかけられないような連れのこと。多くを最初から求めるのは無理だろう。  今朝|抜《ぬ》けたばかりの市壁《し へき》をくぐり、町に入る。相変わらずの人出であり、これを見ると本当にこんなに多くの人間が気がついていないことを連れは気がつけたのだろうかと思う。  もっとも、どんなことだってうまくいったり失敗したりは当たり前。少なくとも確かなことは、自分が久しく忘れてしまった冒険《ばうけん》心を、連れは決して忘れていないということだ。  早く取引したくてうずうずしている横顔は、隣《となり》で見ていても楽しくなってしまうもの。  ところが、連れは馬屋に馬を置くや否《いな》や、こちらに向かってこんなことを言ってきた。 「じゃあ、ちょっと酒場で待っててくれないか」 「え」  と固まってしまったのは、てっきり自分も同行し、毛皮の良し悪しを嗅《か》ぎ分けたり貨幣《か へい》の音を聞き分けたりするものだと思っていたからで、正直、意地悪をされたようにすら感じてしまった。 「あちこちの店に行ったり来たりの取引だからな。この人ごみの中、連れまわされるのは嫌《いや》だろう?」  ずるい、と思った。  連れていくのが邪魔《じゃま》なのなら、そう言えばいい。連れていきたくなさそうなのは明らかなのだから、嫌だろう? などと言われたら、そうじゃな、としか答えようがない。  本音と建前を駆使《くし》して、自分に都合よく話を進めようとする商人ならではの言いまわし。  特に意識はしていないのだろうが、連れにはこういうところが多々ある。 「まあ、そうじゃな」  曖昧《あいまい》な作り笑いを浮かべている連れに不機嫌《ふ き げん》さを隠さず言うと、なにを勘違《かんちが》いしたのかこちらの頭を仔《こ》のように撫《な》でてくる。  どうせ、寂《さび》しがりが寂しくてむくれていると思っているのだろう。  どうしてこれで、自分こそが相手の手綱《た づな》を握《にぎ》っていると考えられるのだろう。  呆《あき》れるほどたわけだが、自信満々な顔を見ていると、ついついそれを愛嬌《あいきょう》だと思ってしまう自分になおのこと呆れてしまう。 「じゃが、ただ、というわけではないじゃろう?」  見た目は細いが実際にはかなりしっかりしている連れの腕《うで》を取って言う。  思いきり嫌そうな顔をされたが、結局|綺麗《き れい》な銀貨を一枚|渡《わた》してくれた。  どうやら、今回の取引には相当の自信があるらしい。 「全部使うなよ」  それでも、連れは念を押すように言う。  連れていってくれれば一銭も使わずにすむのに、とは、言ってやらなかった。  実際、連れには悠長《ゆうちょう》に自分を連れて歩く時間がなかったのかもしれない。  壁《かべ》に囲まれた町の中は、鐘《かね》の音によってその区切りを完全に決められているらしいからだ。  この鐘が鳴ったらこの市場が開き、あの鐘が鳴ったらあの職人たちが休憩《きゅうけい》するその様は、まるで太鼓《たいこ》を合図にして踊《おど》る道化《どうけ》の見世物のよう。旅の途中《とちゅう》で立ち寄る宿の二階から、酒を片手にぼんやり人の流れを眺《なが》めていた時など特に強くそう思ったものだ。  そう考えると、広い大地に一人で荷馬車を駆《か》って、自分の腕《うで》と勘《かん》だけを信じ、従うとすれば月と太陽の動きくらいの連れは、人の中ではかなり自由な部類に入るに違《ちが》いない。  自由と強さは、同じ泉からわくものなのだから。間抜《まぬ》けでお人好《ひとよ》しでもどこか惹《ひ》かれてしまう強さを秘めているのは、連れが自分の力を信じている強い存在だからだろう。  これまでの旅を思い返しながらあれこれ思いつつも、やはり一人で放《ほう》っておかれることに対する慰《なぐさ》めにはなりはしない。  あるいは、怒《いか》りを静める言い訳といったほうが正確かもしれない。  わずか一枚の銀貨を駄賃《だ ちん》に、通り沿いの壁《かべ》が全《すべ》て取《と》っ払《ぱら》われた開放的な酒場の隅《すみ》に押し込まれた。日の出ているうちに酒場に来ている者など、怠惰《たいだ》な旅人か、丹念《たんねん》に天日に干した干物《ひ もの》のような連中ばかりだ。それですら数が少なく、閑散《かんさん》とした酒場の隅《すみ》っこから、渦《うず》のように人が流れる表の通りを、ぼんやりと眺《なが》める羽目になった。  しかも、着替《きが》える暇《ひま》もなかったので、恰好《かっこう》は人が修道女と呼ぶそれだった。  そのせいで、時折テーブルの横に人影《ひとかげ》が寄ってきたかと思うと、全員が全員、同じことを言って小銭《こ ぜに》を置いていった。 「神のご加護を……」  一拝みして、時折|握手《あくしゅ》を求めて、自分たちのテーブルに戻《もど》っていく。  神だなんだと崇《あが》められるのがあれほど嫌《いや》だったのに、こんな間抜けな崇められ方では、腹が立つことすらないのだと、変な感動までした。  煎《い》った豆を時折つまみ、欠伸《あくび》で滲《にじ》んだ涙《なみだ》を飲み下すために、酒に口をつける。  たわけの連れの商《あきな》いがうまくいかなかった時のことも考えて、酸《す》っぱくてまずい質の悪いぶどう酒にしておいた。  眠気《ねむけ》覚ましと、この一人にされた怒《いか》りを忘れないためには十分すぎるまずさだ。口に残ったぶどうの搾《しぼ》りかすを忌々《いまいま》しく指で取っていると、ふと視界に見なれた輪郭《りんかく》が入った。  それは背中に毛皮をたっぷり載《の》せた連れの姿で、脇目《わきめ》も振《ふ》らずに歩いていた。  あの目は、うまくいっている時の目だ。  連れは自覚していないようだが、うまくいっている時は、自分は冷静なのだと言い聞かせているのがばればれな顔をしている。反対に失敗している時は、取り乱していないと自分に言い聞かせるので必死な顔をしている。  要するに、連れは必ず内心常にあたふたしているということだ。  本当に落ち着いているのは、寝《ね》ている時くらいのものではなかろうか。  あまりにもそんな顔が珍《めずら》しいので、時折連れが寝ているところを見計らってはじっとその寝顔を見つめていると知ったら、連れはどう思うだろうか。  多分、緊張《きんちょう》して眠れなくなるに違いない。  それはそれで可愛《か わい》らしいだろうが、と思っていたら、いつの間にか酒が切れていた。  話す相手がいないとつい酒が進んでしまう。  空のジョッキを掲《かか》げて、暇《ひま》そうな主人におかわりを頼《たの》んだ。  突然《とつぜん》連れが人の渦《うず》の中からこちらの静かな世界に入ってきたのは、何回くらい店の前を通り過ぎた頃《ころ》だろうか。  まずくて薄《うす》い酒ばかりでは腹が水っぽくなってしまうので、結局パンやらチーズやらを頼んでしまってからのことだったが、連れはそんなこちらの浪費《ろうひ》をかけらも責めることはなかった。  なにせ、満面《まんめん》の笑《え》みなのだ。  そのまま抱《だ》きすくめられて、頬《ほお》ずりをされたって、驚《おどろ》かなかっただろう。 「周りを出し抜《ぬ》いたこの感覚。たまらないな」  そう言って、こちらの頬をつまんできた。  よっぽど機嫌《き げん》がいいらしい。  それでも追加の銀貨を出そうとしないのは、連れらしいといえば連れらしかったが。 「足元をすくわれんようにの」 「すくわれる前に走り抜けるさ」  これまでの旅を振《ふ》り返れば、どの口がそう言うんだと呆《あき》れるような言葉だが、自信満々の顔はそれだけで微笑《ほほえ》ましい。結局笑って、送り出した。  ただ、実際に儲《もう》かっているらしいのは、通り過ぎるたびに担《かつ》いでいる毛皮の量が多くなっていることからも見て取れた。  より儲けるにはより多くの金額を。  いつだったかそれでどつぼに嵌《は》まり大変なことになった言葉だが、この取引を始める前に毛皮の良し悪しを聞いてきたのは、万が一取引がうまくいかなかった時の、損の限度を見|極《きわ》めるためだろう。  鼻につく慎重《しんちょう》さだが、多分、それは普段《ふ だん》の言動につながっている。  例えば、連れによく見られる、好かれなくても嫌《きら》われることはないような無難な対応などその最たるものだろう。臆病《おくびょう》で打算的。これでいざという時に頼《たよ》りにならなかったら後ろ足で砂をかけるところだが、生憎《あいにく》と見せるところでは見せてくれるので、ずるいと思う。  だが、あれで日頃から勇気と大胆《だいたん》さがあると、それはそれで面倒《めんどう》な奴《やつ》かもしれない。  そんなことを思いながら、何杯《なんばい》目かちょっと覚えていない酒を飲み干してしまう。すぐになくなってしまうので、ジョッキに穴でもあいているのかと逆さに振っていたら、急に視界に人の足が入ってびっくりした。どうやら、酒のせいで視界が狭《せば》まっていたらしい。  顔を上げると、汗《あせ》で前髪《まえがみ》が張り付いた、喜色満面の連れの顔があった。 「大儲けだ」  ぽん、と叩《たた》いた腰《こし》には、今にもはちきれそうな財布《さいふ》がぶらさがっていた。 「途中《とちゅう》から、同じことに気がついた連中が割り込んできて儲《もう》けは少なくなったがな。きちんと共倒《ともだお》れになる直前の頃合《ころあい》で手を引いてきた」  連れはどっかと椅子《いす》に腰を下ろすと、酒を頼《たの》み、運ばれてきたそれを一気に半分ほど飲んで大きくため息をつく。  よほど走り回ってきたらしいのが、連れの埃《ほこり》っぽい匂《にお》いからよくわかった。 「祝杯《しゅくはい》を挙げよう、と言うにはちょっと酔《よ》っ払《ぱら》いすぎてるな」  連れはこちらを見て、苦笑いしながら言う。  ついつい、不貞腐《ふ て くさ》れているのを示したくなって、空になったジョッキに口をつける。 「明日、改めてうまい酒を飲もう。今晩はひとまず宿でも取って……いや、それにしても儲かった」  残りをほとんど一気に飲んで、連れは嬉《うれ》しそうに言う。  きっと本当に嬉しいのだろう。  そんなに嬉しそうな顔をしていたら、こちらだって笑わざるを得ない。 「ま、いったん引き上げよう。歩けるか?」  何百年ぶりかに差し出された手のように懐《なつ》かしいそれを取ると、酒に酔っている自分のそれよりもよほど熱かった。頭の芯《しん》が痺《しび》れるような、眠気《ねむけ》に似た感覚を催《もよお》す温かさ。  賢狼《けんろう》の名折れだが、連れが支払《し はら》いをしている最中も、眠くてぐずる仔《こ》のように連れにもたれかかっていた。 「ほら、しっかりしろ。宿まですぐだから」  しっかりしろ、とか、大丈夫《だいじょうぶ》か、とか言われると、余計に足元がふにゃふにゃとしてしまう。  幼子《おさなご》のように手を引いてもらって、町の夕方特有の人いきれの中を進んでいった。  耳には洪水《こうずい》のように音が飛び込んできて、目がほとんど開いていなくたって町の様子くらいは手に取るようにわかる。人の話し声や、動物の鳴き声に、物を打つ音やなにかを引きずる音。  こんなにもたくさんの音にあふれていながらも、連れの心臓の音だけは格別よく聞こえている。  いや、それともこれは自分のものだろうか。  そんな曖昧《あいまい》さが心地《ここち》よくて、ふわふわとした足取りの中、引っ張ってくれる連れの手だけがしっかりと意識の中にあった。  こんな時間が永遠に続けばいいのに。  そんなことを思って、馬鹿《ばか》馬鹿しい、と思った瞬間《しゅんかん》だった。 「この毛皮が買い取れないってどういうことだ!」  そんな怒鳴《どな》り声が耳に入って、ふっと意識が戻《もど》ってきた。 「買い取れないものは買い取れない。毛皮が妙《みょう》な稼《かせ》ぎの種にされていると組合から連絡《れんらく》が入ってね。連絡《れんらく》があるまで買い取れないんだよ」 「なんだあ、そりゃあ!」  喧騒《けんそう》だらけの町の中では、そんな怒鳴《どな》り声を気に留めるような暇人《ひまじん》はいない。  しかし、直前まで毛皮を使って大|儲《もう》けをしていた連れに手を引かれていれば、気にも留めてしまう。 「危ないところだった」  連れは、こちらを見てにやりと笑ってそんなことを言った。  たまにうまくいけば途端《と たん》にこれだ、と思わなくもないが、秘密を共有する背徳感も手伝って、やれやれと笑ってしまう。  しかし、今まさに危機に直面している商人たちは、我慢《が まん》ならなかったらしい。 「組合長を出せ!」  最後にそう怒鳴って、商品台を叩《たた》いていた。  これにはさすがに町の人間たちも足を止めて、何事かと覗《のぞ》き始めていた。  同じ毛皮を山ほど抱《かか》えた商人はさらに激昂《げきこう》するが、どう見ても演技だった。わざと騒《さわ》いで無理にでも買い取らせよう、という魂胆《こんたん》なのだろう。連れもしょっちゅうそんなところを見せるが、商人たちというのは驚くほどに姑息《こ そく》だ。  むしろ感心してしまって、そちらを眺《なが》めていた。 「行こう」  一人うまいこと走りきった連れは、手を引いて歩き出そうとする。  その顔はちょっと強張《こわば》っていたので、自分はうまいことやりおおせながらも、やはり損に直面している者たちを見るのは忍《しの》びないのかもしれない。  ちょっとたわけておるが優《やさ》しい雄《おす》。  そんなことを思いながら、連れに引かれるままに歩き出そうとした瞬間《しゅんかん》だった。 「見ろ! きちんとディネオールブルクの組合印章付きだ! これで買い取れないとはどういう了見《りょうけん》だ!」  そう言って、商人が山のような毛皮の中から、一抱《ひとかか》えほどにくくられている毛皮の束を取り出して頭の上に掲《かか》げていた。詰《つ》め寄られているほうの商人は困惑《こんわく》顔だが、おそらく印章とやらはなにかを証明する類《たぐい》のものなのだろう。  連れの商《あきな》いを見ていてわかったのだが、人は信用というものをよく使う。見知らぬ者からあれこれ買ったり受け取ったりするのが日常|茶飯事《さはんじ》なので、そういったことがどうしても必要なのだろう。確かにあの商人にしたらそれら信用を示すものがあっても取引を拒否《きょひ》されたら、腹の一つも立つはずだ。  難儀《なんぎ》なことだ、と思ってそちらを見ていたのだが、連れが慌《あわ》ててこちらの手を引くのに抗《あらが》って、その場に足を止めてしまったのは、そんな商人が哀《あわ》れだったからではない。  その商人が頭上に掲げていた毛皮の束。それをくくる革紐《かわひも》にくっついたものに、見覚えがあったからだ。  焦《こ》げ茶《ちゃ》色の毛皮の束についていてなお映《は》える、くすんだ銀色の粒《つぶ》。  連れはさらにこちらの手を強く引こうとするが、抗って振《ふ》り向き、次いで、ローブの下にある自分の尻尾《しっぽ》のほうを見た。それからもう一度|激昂《げきこう》する商人のほうを見れば、その銀色の粒は、ちょうど自分が拾ったものと同じ形のものだった。  しかも、その手に持たれているのは、大して良くもない質の、がさがさの毛並みの狐《キツネ》の毛皮だった。  つながっている連れの掌《てのひら》に、じんわりと汗《あせ》が滲《にじ》んでいるのがよくわかった。  間をあけず、荷馬車の上でのやり取り全《すべ》てに合点《が てん》がいった。  連れがあの革紐を尻尾に巻いて喜ぶ自分を見て動揺《どうよう》していたのは、それが似合いすぎていたからではない。尻尾に巻いていたのが、狐の毛皮を売買する時につける、値札のようなものだったからだ。  どれだけ間抜《まぬ》けな狼《オオカミ》だって、自分の尻尾に値札をつけて喜ぶような馬鹿《ばか》はいない。  だとすれば、連れが動揺するくらいに似合っていたからなどと思う自分は、一体どれくらい底抜けの間抜けだったのだろうか。  ただ、腹が立つのはそれだけではない。  連れのあの態度と、目の前のこの態度。  連れは、こちらが間抜《まぬ》けにも自分の尻尾《しっぽ》に値札をつけて喜んでいるのを、隠《かく》し通そうとしていたことは間違《ま ちが》いない。手を引いてさっさとここを立ち去ろうとしたのも、おそらくは自分を連れて町を巡《めぐ》らなかったのも、御者《ぎょしゃ》台の上でちらちらこちらの尻尾を見て動揺《どうよう》していたのも、全《すべ》てそうだ。連れのことだから、波風立たずにすむのなら、黙《だま》っていたほうが得策だ、とでも思ったに違いない。今まさに全てが露呈《ろ てい》しているのに、こちらを見たままなにも言えず固まっているのを見たって明らかだ。  おそらく悪気はなかったのだろうし、ましてや間抜けな自分を笑うつもりなどかけらもなかった、ということだけはわかる。  しかし、それにしたって、この賢狼《けんろう》にこんな間抜けな道化《どうけ》役を。  人の口の両横を覆《おお》っている頬《ほお》を不便だと思ったことは数知れないが、今この瞬間《しゅんかん》は、怒《いか》りの牙《きば》を隠しおおせることに感謝した。  さもなくば、いくらでも表情を偽《いつわ》れる、その便利さに。 「あ、あのな?」  連れが、少ない知恵《ちえ》を絞《しぼ》って捻《ひね》り出したらしい言葉を言おうとした瞬間だった。  脂汗《あぶらあせ》だらけの手を離《はな》し、思いきり連れの腕《うで》にすがりついた。町で人の娘《むすめ》たちがしているように、顔をこすりつけ、体ごと押しつけるようにすがりついた。  連れの体が強張《こわば》るのがわかる。森や山で野犬に襲《おそ》われたことがあるという経験を思い出しているに違いない。  しかし、こちらは野犬ではない。  ヨイツの賢狼ホロ。  顔を上げて、満面の笑《え》みでこう言ってやった。 「さて、わっちの腕でくくられた行商人は、どの程度の質なのじゃろうな?」 「いや、お前、そもそも——」 「儲《もう》けたのじゃろう? んふふ。お祝いにはどんな酒とご馳走《ち そう》が出るのやら、楽しみじゃな?」  悪いのはどちらかといったら、多分、こちらの分が悪い。  それでも、看過できないことがある。  連れは少なからず理不尽《り ふ じん》を感じ取っていたようだが、こちらを苦しげに見つめたあと、がっくりとうなずいた。  看過できるわけがない。  これほど町にあふれる人々を出し抜いた知恵を持つ連れを、自分のわがままの下《もと》にねじ伏《ふ》せられる機会など。  馬鹿《ばか》なことだとは思っている。  それでも、やめることなどできなかった。  なにせ、ため息をついてとぼとぼ歩き出した連れの横顔が、まんざらでもなさそうなのだから。  ぎゅっと連れの腕《うで》を抱《だ》きしめる。  その正しい価値と質を知っているのはこの賢狼《けんろう》だけだと、世に知らしめるように。  馬鹿《ばか》なことだとはわかっていたが、尻尾《しっぽ》に値札をつけて喜んでいた自分には分相応かもしれぬと、そう、思ったのだった。 [#地付き]終わり [#改ページ] [#改ページ]         序  町から丘《おか》一つ離《はな》れると、もう見知らぬ光景が広がっていた。  目を閉じても歩けるくらいに慣れ親しんだ丘や野とは違《ちが》う、別の国につながっている大地。  上を見ると空高く鳥が飛び、振《ふ》り向けば遠くの草原には羊と羊飼いの姿が見える。  あまり良い思い出はなかったものの、いざ離れるとなると寂《さび》しくなる。  わずかに吹《ふ》いた心地《ここち》よい風が、やれやれと笑っているようだった。  軽くため息をつき、深呼吸をする。  旅立ちからこんなことでは先が思いやられるというものだ。  荷物を背負いなおし、くるりと前に向きなおる。  道はまっすぐに伸《の》びていて、迷うこともない。  それに、自分は一人ではないのだから。  頼《たよ》りになる黒毛の小さい騎士《きし》が、つぶらな目でこちらを見つめている。  勇敢《ゆうかん》で実直なこの騎士も、騎士の名に相応《ふさわ》しく少し厳しいところがある。  心の中の不安を見|透《す》かしているように、じっとこちらを見つめていた。  大丈夫《だいじょうぶ》、と口に出す代わりに、笑顔《え がお》を向けると騎士《きし》は立ち上がった。  ならば、あとは前に進むだけだ、と言わんばかりに。  一歩、前に足を出すと、二歩目はあっさりとあとに続いた。  三歩目、四歩目は意識することもない。  すいすいと足は進み、どんどん周りの景色は変わっていく。  新しい世界と、新しい生活を求めての旅が始まった。         一  世の中というものは巡《めぐ》り合《あ》わせで動いている。  このように言い切ったところで、余人はさしたる反論を持ち合わせはしないだろう。  不肖《ふしょう》、この我輩《わがはい》が現在生きながらえているのもまったくの巡り合わせであった。  生を受けてどれほどの月日が流れたかはわからぬ。  されども、短くはなかった、とだけは言うことができる。  もはやこれまで、と諦《あきら》めかけたことは一度や二度ではないし、よもやそのようなことが、といった偶然《ぐうぜん》に救われたのはそれ以上であった。  加えて、是非《ぜひ》とも申し上げねばならぬことがある。それは、我輩がこの生涯《しょうがい》において仕えてきたのはただ二人の主《あるじ》だけである、ということである。  一度目の主は寡黙《か もく》にして、山のごとく悠然《ゆうぜん》とした実に主らしき主であった。目を開けたばかりの我輩を厳しく仕込み、おそらくは我輩が死ぬまで頼《たよ》るであろう技能を授《さず》けてくださったのもこの主であった。質素で静かな生活ではあったものの、思い出せば胸が締《し》めつけられる思いがする良き毎日であった。充実し、不満もなく、我輩はそのような生活が永遠に続くとも無邪気《む じゃき》に信じていた。  それが弾《はじ》ける泡《あわ》のごとくに消え去ったのは、まったく巡り合わせという以外に表現する術《すべ》を持たぬ。  野を行けば、狼《オオカミ》や熊《クマ》の類《たぐい》のみならず、連中の牙《きば》や爪《つめ》よりも恐《おそ》ろしい鉄で武装した者どもも存在する。旅の途中《とちゅう》では十二分に注意をしなければならないのであるが、突然《とつぜん》の雨と風によって迂闊《う かつ》な場所で野宿をしてしまったのである。  されど、我輩らがあの場所で野宿をし、そこにあの連中がやってきたということになんらの必然性もなく、どちらも偶然《ぐうぜん》に他《ほか》ならぬというのは論を待たない。あの夜にあの場所で我々が鉢合《はちあ》わせてしまったのは、およそ不可思議な巡り合わせの力というものが働いていたとしか思えぬことであった。  とにかく、我輩《わがはい》は懸命《けんめい》に戦った。  死力の限りを尽《つ》くして戦った。  一騎《いっき》当千《とうせん》という言葉は我輩のためにある、ということを臆面《おくめん》もなく胸に抱《いだ》いていたことも確かにあった。  だからそのような慢心《まんしん》が隙《すき》を生んだ、と言えるのであればまだましであったのかもしれぬ。  勝負は文字どおり圧倒《あっとう》的な劣勢《れっせい》であり、主《あるじ》は斃《たお》れ、我輩は傷ついた。  あの、横殴《よこなぐ》りの雨と風の中、顔を血と泥《どろ》と雨のまじったものでどろどろにしながら、その命とも呼べる杖《つえ》を我輩に授《さず》けた時の主の顔は、今もって正確に思い出すことができる。  下僕は主の身を守るのと同じくらいに、その名誉《めいよ》を守らなければならぬ。  我輩は主の杖と共に逃《に》げた。  必死に逃げた。  折からの雨と風、それに闇夜《やみよ》が我輩の味方をしてくれたに違《ちが》いない。  無我夢中で走り続け、気がついた時には夜が明けていた。  我輩は己《おのれ》の体のどこが傷ついているのかもわからず、もはや一歩も歩けぬというほど精根|尽《つ》き果て、大きな岩陰《いわかげ》に身を寄せてうずくまった。  夜の雨と風が嘘《うそ》のように収まって、ゆっくりと地平線から昇《のぼ》ってきた太陽の暖かさは今でも忘れることができぬ。  また、恥《は》ずかしながら、その暖かさの中で我輩はこのまま死ぬのだと思ったことも事実である。  主の名誉を守ることができたのかどうか。  目の前にある、おそらくは形見になった杖を前に、我輩は自問するほかなかった。  天に昇れば主に聞くこともできよう。  そんなことだけを慰《なぐさ》めに、我輩はきっと二度と開かぬであろう瞼《まぶた》を閉じたのである。  かようなわけであるから、誰《だれ》かが我輩を揺《ゆ》り動かし、再び目を開けた時にはそこは天の国であると信じきっていた。  しかし、我輩の目に入ったのはおよそ天の国に相応《ふさわ》しいとは思えぬものであったのだ。  頬《ほお》がこけ、着ているものはみすぼらしく、路傍《ろ ぼう》の老木かなにかのほうがまだしも気品がある、といった出《い》で立《た》ちをした娘《むすめ》であった。そのような娘が、あかぎれだらけの手を温めるためではなく、我輩が目を覚ますようにと我輩の体を揺さぶっていたのだ。  主は時折酒に酔って口が滑《なめ》らかになると、我輩のことを騎士《きし》と呼んだ。また折々にその騎士たるものの務めを聞かされたが、その精神はまこと我輩の心を打つものであった。  であればこそ、我輩は奇跡《き せき》を起こさざるを得なかった。  今にも自分のほうが倒《たお》れそうになりながら、その娘は必死に死の淵《ふち》より立ち上がるようにと泣くのである。ここで立ち上がらなければ我輩は二度と自らを騎士《きし》と呼ぶことができぬ。  怪我《けが》も、疲労《ひ ろう》も、全《すべ》てを飲み込んで立ち上がった。  その時の誇《ほこ》らしさは今もって忘れることができない。  自らが瀕死《ひんし》の状況《じょうきょう》にありながら、なお我輩を気遣《き づか》えるその心|優《やさ》しき人物は、我輩が立ち上がると、安堵《あんど》するように笑ったのである。  飢《う》えと寒さの中、他者を気遣い、なお笑うことができる。  我輩が、この者を新たなる主《あるじ》としようと思ったのはまさしくこの瞬間《しゅんかん》であった。  我輩とその人物は、間もなく共にその場に倒《たお》れ伏《ふ》したのであるが、体は離《はな》れることがなかった。もはや運命であったに違《ちが》いない。しばしの眠《ねむ》りのあと、空腹によって目を覚ました時、同時に目を開いたのもそのためであろう。  そして、実際に運命の出会いであったのだ。  我輩は新しき主人を得た。それはいささか頼《たよ》りなく、されど慈悲《じひ》深さにおいては比類ない、我輩が尽《つ》くすに十分な資質を持つ新しき主であった。その名をノーラといい、未《いま》だあどけなさを残す幼き娘《むすめ》であった。  それに仕える不肖《ふしょう》この我輩の名はエネク。新しき主に受け継《つ》がれた杖《つえ》に名が刻み込まれていたお陰《かげ》で、名が変わるという不便は避《さ》けられた。一つの大きな縁《えん》は他《ほか》の小さな縁も呼び込むらしい。  言葉は通じぬ仲なれど、だからこそ強い絆《きずな》というものも生まれよう。  一介《いっかい》の犬である我輩がそのようなことを思っては、人である主は怒《おこ》るだろうか。  いやいや立派は立派な主なれど、まだまだ我輩が居《お》らねば危《あや》ういのであるからして、そんなことも許されよう。  なぜならば、見よ。  我輩が側《そば》に居らねば安眠《あんみん》もおぼつかないのだから。  まったく軟弱《なんじゃく》な主ではあるが、互《たが》いに支え合う関係もまた美しき主従関係に他なるまい。  我輩はそのように判断して、主と同じ毛布の中にて暖を取るのである。  季節は冬。  致《いた》し方《かた》のない判断であったろう。  冬の朝は早い。  それは日の出という意味ではもちろんなく、寒さで眠っていられないという意味だ。  まだ夜も明けきらぬ時間に起き出して、互いに空に向かって大|欠伸《あくび》をする。  そのあとにくしゃみをしたのは主だけであり、我輩はすまし顔でその失態を眺《なが》めていた。 「鼻がくすぐったくて」  我輩《わがはい》の視線に気がついたのか、主《あるじ》は言い訳がましくそう言った。 「それにしても」  いったんは冬の寒さに怖気《おじけ》づいてか、我輩の体を抱《だ》きしめたまま往生際《おうじょうぎわ》悪く毛布の下にいたものの、覚悟《かくご》を決めて寒空の下に体を晒《さら》した主は未《いま》だ空で輝《かがや》く星を見ながら言葉を続けた。 「目が覚めて羊の鳴き声が聞こえないのには、なかなか慣れないね」  然《しか》り。  その言葉には、我輩も同意せざるを得ない。 「羊飼いのお仕事は大変だったけど……しなくていいとなるとやっぱり寂《さび》しいかな」  無能な羊どもを操《あやつ》り、連中に草をたらふく食わせて肥えさせる羊飼いの仕事は、実に消耗《しょうもう》するものであった。放《ほう》っておけば道に迷い、何度|叱《しか》っても道順を覚えず、主と下僕の違《ちが》いもわからずにただめーめーと鳴くしか能のない連中を束ねる仕事が楽であるはずがない。  主と我輩はその仕事をたつきとしていたのではあるが、永遠に続く毎日がないのと同様、その長きに亘《わた》って行ってきた仕事も廃業《はいぎょう》する運びとなった。我輩としては、夜明けと共に目を覚ますや否《いな》や、羊が逃《に》げていやしないかと祈《いの》るように羊どもの数を数える主の悲痛な横顔を見なくてすむのにこしたことはないとも思う。  されども、太平楽にめーめーという連中の鳴き声がなくなるとそれはそれで座りが悪かった。  我輩と主の二人旅になってすでに二週間も経《た》つのだから、そろそろ吹《ふ》っ切らなければならぬ。  そんな強き言葉を胸中で呟《つぶや》きながらも、ぼんやりとしている主の横顔を見てしまうと、つい我輩も我慢《がまん》できずにその横顔に鼻を押し当て、顔をこすりつけていた。  主の弱々しい顔は、見たくないのである。 「ん……ごめんね。大丈夫《だいじょうぶ》」  我輩の顔を両手で包んで主は笑う。  半ば望んでいたこととはいえ、羊飼いを廃業するに当たって、その象徴《しょうちょう》ともいうべき羊飼いの杖《つえ》の先端《せんたん》から鐘《かね》を外した時の主の顔は忘れることができない。  我輩は一声|吼《ほ》えて、白い息を吐《は》く。  恥《は》ずかしげに笑う主は、生来の強さを取り戻《もど》していた。 「じゃあご飯にしよっか。実は、少しだけどね、この前の町で奮発しちゃったんだ」  そう言っていそいそと麻袋《あさぶくろ》の中からパンを取り出す主の子供っぽさには苦笑いを禁じ得ない。  それに、わずかばかり路銀に余裕《よ ゆう》があるからといって贅沢《ぜいたく》をしていてはならない。  我輩はそう思ってじっと主を見ていたのだが、我輩の視線に気がついた主はどういうわけかくすぐったそうに笑ってこう言うのだ。 「こら、エネク。はしたない」  心外である。  この尻尾《しっぽ》は決して麻袋の中のパンに揺《ゆ》れ動いているのではなく、主が強さを取り戻してくれたことに対する喜びであって、決してそのような浅ましいことでは……。 「でも、ほら、真っ白なパン」  主《あるじ》はパンを二つに割って中を見せてくれた。  その途端《と たん》、大地がはぐくんだ芳醇《ほうじゅん》なる小麦の香《かお》りが鼻をくすぐった。  我輩《わがはい》は、己《おのれ》が犬であることを誇《ほこ》りにしたいがゆえに、本能に抗《あらが》うことはしなかったのである。  短い食事を終える頃《ころ》には空の色が薄《うす》くなり始めていた。  夜空で寒々しく光っていた氷のかけらのような星々は消え去って、一歩歩くごとに視界が開けていく。  とはいっても急に暖かくなるわけもなく、呼気は長い帯となって後ろへ流れていき、大地は相も変わらず冷たかった。 「羊がいなくて楽は楽だけど、そろそろ屋根のある場所が恋しいよね」  鐘《かね》のついていない杖《つえ》をつきながら、主は見た目からはなかなか想像できない力強いしっかりとした足取りで歩いていく。 「今日か、明日には着くと思うんだけど」  言いながら、ばさりと広げる地図は羊の皮だ。  仕事の道具でありながら、主は羊が傷つけば泣き、危ないことをすれば怒《おこ》り、別れの時には寂《さび》しげにする、まるで母のような接し方をしていた。  そんな次第《し だい》であるから羊の皮に図を描《か》いたものなど忌避《きひ》するかと思いきや、意外にそういうわけでもない。  人というものは、我輩には若干《じゃっかん》理解不能なところがあった。 「でも、町の話、エネクはどう思う?」  地図を眺《なが》めながら、主は我輩に尋《たず》ねてくる。  地図から顔を上げないのは、わずかに不安があるからだろう。  我輩は主に仕える身であるから、主の選んだ旅路にはついていくのが定めである。  ならば、主が多少なりとも危険のある道を選んだというのであれば、それを励《はげ》ますのが務めであろう。  そう判断して、我輩は視線を主からまっすぐ前に向けた。  選んだのであれば進むほかない。  そのように伝えるためであった。 「そうだよね。雇《やと》い主《ぬし》は危険と労苦に金を払《はら》う、なんて言葉があるくらいだからね」  我輩はその言葉には、一声|吼《ほ》えて返事をした。  羊飼いとして名を馳《は》せていた我が主は、事情があってその仕事を廃業《はいぎょう》せざるを得なかった。  幸いといえば手元にたっぷりの金が残ったことで、それは主《あるじ》の夢を叶《かな》えるのに十分な額であった。我が主は、常々服の仕立て職人になりたいと我輩《わがはい》に語ったものである。主の夢を聞くのは嫌《いや》ではなかったが、主がそれを決して叶わぬ夢のように語るのは好きではなかった。  であるから、その夢が実現可能そうであるのならば我輩は全力で手伝う所存でありながらも、満面の笑《え》みを持って、とは言いがたい。  主が言ったように、夢を叶えるには危険を覚悟《かくご》せねばならぬようであるからだった。 「疫病《えきびょう》で人口の半分が死んじゃった町だってさ」  恐《おそ》ろしいのであれば引き返せばよかろうに、とは我輩の浅はかな考えなのだろう。  主にはそんな危険を冒《おか》してでも、その町に行く理由があるのだ。  主が旅の途中《とちゅう》に立ち寄った町で聞いた、疫病によって壊滅《かいめつ》しかけた町の話。  人口が減り、働き手がいなくなり、町は立ちなおるためにたくさんの人手を必要とするという。  そこであれば、主のような旅の娘《むすめ》であり、また経験も伝《つて》もない者であっても容易に職人になることができるという話であった。  されど、そんなうまい話がいつまでもあるわけはない。  町から疫病が消え去ったとわかれば、仕事を求める者が大挙して押し寄せるだろうからだ。  となると、機会は今しかない。  主にその話をしてくれたのは、周りが疫病の話に敬遠している中でも果敢《か かん》に町に向かい、商《あきな》いを行っていたという命知らずの商人であった。彼の言うところでは、そこに商いの相手がいるのであれば、地獄《じ ごく》の底であっても行く、ということであった。天晴《あっぱ》れである。  そして、彼が見るところではクスコフというらしいその町の疫病は勢いを減じており、もはや心配はいらぬということであったし、また、その話が近隣《きんりん》に広まるのももはや時間の問題である、とも言っていた。  善は急げと言い、主はその言葉を聞くや否《いな》や早速《さっそく》旅立つことにしたのである。  まさしくその話を聞いた日の昼間、町で服の仕立て職人になりたいと願い出て、無下に断られていたというのも、理由の一つかもしれなかったが。 「それでも、町の人たちの半分が死んでしまうなんて、教会のお祈《いの》りも効果がなかったのかな」  主は地図をたたみながら、ぽつりと言った。  主が羊飼いを営んでいる間、教会は主に信じられない仕打ちばかりをした。  その羊飼いの腕《うで》のよさを妬《ねた》んでのことか、連中は主のことを魔女《ま じょ》扱《あつか》いしていたのだ。  主は結局その教会に対して胸のすくことをしてくれたのではあるが、同時にその行いを悔《く》やんでいるのもまた事実であった。自らが迫害《はくがい》されても、仕返しをして鼻歌を歌うような者でないことは、確かにその下に仕える我輩としては誇《ほこ》るべきことなのかもしれぬ。  されど、ささやかな仕返しを悔《く》やみ、また、今もってなお教会に権威《けんい》を認める主《あるじ》の馬鹿《ばか》正直さには若干《じゃっかん》の苛立《いらだ》ちを禁じ得ない。  だから、我輩《わがはい》は返事をせずにまっすぐ前を向いていた。  そんな我輩の胸中を知ってか知らずか、元々主は雄弁《ゆうべん》なほうではないこともあって、そのあとは黙々《もくもく》と歩く道中となった。日が昇《のぼ》り、暖かくなれば我輩らの足の速さはそこいらの旅人よりも断然速い。快調に歩き、主が確認《かくにん》する地図上では着実に町に近づいているとのことだった。  我輩は獣《けもの》の端《はし》くれであるから野宿などいくら重ねても構わないのであるが、人である主はそうもいかない。明日の夕刻|頃《ごろ》には町に着きそうだということであるから、疫病《えきびょう》云々《うんぬん》のことはさておくとしてひとまず安心ではあった。  主は庭園に咲く貧弱な花というわけでもないが、いかに丈夫《じょうぶ》な野の花といえど、冷たい空《から》っ風《かぜ》に晒《さら》されればぽっきり折れてしまうこともあるものである。  それに、主は少々体に肉がなさすぎる。  人は獣のような毛を持たないのであるから、せめて肉をつけるべきだと我輩は考える。  あれでは欠食の若い雄《おす》と言われても言い訳できぬであろうに。  そんなことを考えていた瞬間《しゅんかん》であった。 「エネク!」  名を呼ばれて尻尾《しっぽ》の毛を逆立ててしまったのは、なにも主のことを考えていたからではない。  我輩と主ほど主従関係が密になれば、名の呼び方一つで数多《あまた》の意思|疎通《そ つう》ができるものである。  その呼び方は懐《なつ》かしき響《ひび》きを持ち、我輩の血と肉を躍《おど》らせる。  主の杖《つえ》が掲《かか》げられ、ひゅっと前に向けて伸《の》ばされた。 「っ!」  我輩は考える間もなく、再度の主の掛《か》け声《ごえ》が聞こえぬほどの速度で走り出していた。  目指すは杖が向けられた前方の丘《おか》の上。  そこでは野良化したみすばらしい毛並みの羊がのんびり草を食《は》んでいた。  我輩の爪《つめ》は大地を噛《か》み、耳には風を切るびょうびょうという音しか聞こえない。  間抜《まぬ》けな羊はようやく我輩に気がついたらしく、泡《あわ》を食って逃《に》げ出そうとする。  されど鈍重《どんじゅう》な羊を逃《のが》す我輩ではない。  駆《か》け、飛び、草を掘《ほ》り返す勢いで地面を蹴《け》り、羊の前に回り込んで大声で吼《ほ》える。  羊は混乱の極《きわ》みに陥《おちい》ってただ足踏《あしぶ》みをするばかりであり、もはやその身は我輩の言いなりである。そのことを告げるべく、我輩は空に向かって遠吠《とおぼ》えをした。  ちょっとした余技であることはもちろんわかっているし、実際に丘の下からこちらに歩いてくる主は楽しげに笑っている。それでも胸を張って雄々《おお》しく遠吠えをするのが気持ちよくて仕方がない。  一人|肝《きも》をつぶして慌《あわ》てふためく羽目になった羊こそ気の毒ではあったものの、我輩が貪欲《どんよく》な狼《オオカミ》でなかったことだけは運が良い。丘の上にやってきた主《あるじ》は杖《つえ》を軽く振《ふ》り、我輩《わがはい》は任を解かれてその側《そば》に寄る。  よくやった、とばかりに頭の後ろを掻《か》いてもらうのはなによりの褒美《ほうび》であった。 「驚《おどろ》かせてごめんね」  主が羊に向かって言うと、野良《のら》は野良なりの矜持《きょうじ》があるらしく、一つ甲高《かんだか》く鳴いて走り出した。町から少し離《はな》れた場所では野良の羊も珍《めずら》しくはない。どれほど生き延びられるかは神のみぞ知るであるが、それは我輩らも変わらないのである。  そんなことを思っていると、主は走っていく羊を目を細めて見つめていた。  そして、我輩の視線に気がつくと照れくさそうに笑い、走ってきたせいもあるだろうが若干《じゃっかん》頬《ほお》を紅潮させながら、こう言った。 「羊さんには悪いけど、やっぱり楽しいね」  主もなかなかに、悪《わる》であった。  その日の晩は街道からやや離れた、丘《おか》と丘の間のくぼみで野宿することとなった。  疫病《えきびょう》で人口の半分が死んでしまったという町の噂《うわさ》が手伝ってのことか、道の状態はそれほど悪くないというのに誰《だれ》一人としてすれ違《ちが》うことはなかった。そんな状況《じょうきょう》であるから街道脇《かいどうわき》で野宿をしたところで問題なさそうではあったが、主は意外に用心深い。  そのくせ、夕食時に小鳥へとパン屑《くず》を与《あた》えていたら、突然《とつぜん》空から舞《ま》い降りてきた鷹《タカ》が小鳥を攫《さら》っていったことにしばし呆然《ぼうぜん》と固まっていた。  見晴らしの良いところで鷹に飯を持っていかれたことは一度や二度ではないのに、学習しない主である。  しばらくして我に返ると、我輩に八つ当たりするのもいつもどおりである。  いかな騎士《きし》たる我輩でも、空から文字どおり降ってわく連中にはどうしようもない。  されど、従順なる我輩はしおらしく耳と尻尾《しっぽ》をたらし、主の怒《いか》りが通り過ぎるのを待つのであった。  そんなことをして我輩らが眠《ねむ》りについたのは日が暮れてすぐのことである。  火は熾《おこ》さず、互《たが》いに寄り添《そ》い暖を取っての睡眠《すいみん》は、羊というお荷物がいない分気楽ではあったが、どうにも気の緩《ゆる》みというものが避《さ》けられない。一応周囲を警戒《けいかい》しながら眠りにつくのではあるが、そのぬくもりから逃《のが》れることはなかなかに難しい。主が動いたせいで毛布から出てしまった顔をもそもそと毛布の下に入れるのにももはやあまりためらいがない。こんなことでは飼いならされた犬となんら変わらないではないか、と夢現《ゆめうつつ》に思いながらも、体は正直に主の腕《うで》の中へと潜《もぐ》っていく。  いかんともしがたい。  騎士《きし》としての誇《ほこ》りと、主《あるじ》の体温の心地《ここち》よさとの間で板挟《いたばさ》みになり、うんうんと唸《うな》っていたかどうかは定かではないが、少なくとも悩《なや》んではいた。  であるから、我輩《わがはい》は一瞬《いっしゅん》その気配を気のせいかとも思ってしまった。  それが気のせいではない、と思った直後には耳をぴんと張って顔を上げたのであるが、我輩の首は毛布の下のみならず主の腕《うで》の下にあり、這《は》い出るのに苦労した。  おそらくは寝《ね》ぼけているのであろう。毛布の下から顔を出そうとする我輩を、むにゃむにゃと寝言を言いながら抱《だ》きとめようとする主の腕を振《ふ》り切《き》ってようやく顔を空の下に出せた。  もうその頃《ころ》には確信が持てていた。  これは、争いの音である! 「ん……エネク?」  羊のお守《も》りという重責から解放されて、抗《あらが》いがたい安眠《あんみん》の魅力《みりょく》にここしばらくはすっかり骨抜《ほねぬ》きにされてしまっているのは我輩だけではないが、そこはそれ。我輩の様子からただならぬ雰囲気《ふんいき》を感じ取ると、即座《そくざ》に目を覚まして周囲に視線だけを巡《めぐ》らせた。 「狼《オオカミ》?」  狼が頻繁《ひんぱん》に出没《しゅつぼつ》するという森の近くで生きながらえてきた主である。  怯《おび》えるということはなく、その声にはむしろ来るなら来いというほどの張りがあった。 「では、ない……みたいだけど……」  地に耳をつければたちどころに彼らの足音を聞き分け、数と方向を把握《は あく》することにつけては獣《けもの》である我輩並みの主である。  狼ではないことにすぐに気がつき、体を起こして辺りを見回した。我輩はその間にもこの耳に争いの音を聞いている。主にそれを知らせるべく、ずっと同じ方向に視線を向けていた。  怒号《ど ごう》と、時折まじる鉄の音。  人同士の争いであろう。 「山賊《さんぞく》?」  人が獣である狼を恐《おそ》れるよりも、同じ人のほうをより恐れるというのは大いなる皮肉である。  主は我輩に寄り添《そ》い、そっと耳打ちをしてくる。  しかし、我輩が喉《のど》を低く唸《うな》らせなかったことで、危険が我々に迫《せま》っているわけではない、ということを察したらしい。  主は手早く荷物をまとめて、ゆっくりと立ち上がった。 「……」  指示は杖《つえ》で。  我輩は歩き出し、音のする方向へと小走りに駆《か》けていった。  空に浮かぶ月はところどころ穴のあいた雲の向こう側《がわ》にあり、視界はあまり良いとはいえない。我輩は己《おのれ》の体が闇夜《やみよ》に乗じやすいことを知ってはいるが、そのせいで主が我輩を見失わないようにと何度も後ろを振《ふ》り返った。  そして、ようやく丘《おか》の上に立つと、全《すべ》ては一望の下《もと》に理解ができた。  遅《おく》れてやってきて、身を低くしている主《あるじ》に我輩《わがはい》が視線を向けると、主は目を見開いて驚《おどろ》いていた。  丘から見下ろしたその視線の向こうに、遠目にもはっきりとわかる。  街道《かいどう》に沿ってぽつんと建つ旅籠《はたご》であろう建物の脇《わき》から、火の手が上がっている。  我輩ほどの耳を持たぬ主にも悲鳴が聞こえたに違《ちが》いない。  盗賊《とうぞく》に、旅籠が襲《おそ》われている。 「ど、どうしよう」  主が呟《つぶや》くのも当然だ。  主の性格からすれば助けに行くべきか悩《なや》むところだろう。  しかし、相手の人数も装備もここからではわからない。  主は思いきりのよいほうではあるが、難しい局面である。  我輩はいつでも主の命に従えるように体だけは温めておく。  火によって離《はな》れの屋根でも落ちたのか、大きく火《ひ》の粉《こ》が上がったその直後だった。 「あっ」  火の手の上がっていない母屋《おもや》の入り口から、人が飛び出してきた。  暗闇《くらやみ》と煙《けむり》のせいで顔を窺《うかが》うことはできないが、服装から旅の巡礼《じゅんれい》者のように見えた。  恐怖《きょうふ》か、あるいは怪我《けが》のせいかふらついていることもわかる。  よたよたと街道に向かって逃《に》げ、そのあとを追ってもう一人出てきた。  その手には剣《けん》を持ち、間違いなく襲撃《しゅうげき》者の側《がわ》である。  足の速さの差は牛と馬ではなかろうか。おそらくあっという間に追いつかれるであろう。  と、その時、もう一人が入り口から飛び出してくる。そして、襲撃者が振り向く間にその体に飛びついた。  次いで、我輩の耳にははっきりと、おそらくは主の耳にもぼんやりと聞こえていただろう。  お逃げください、と叫《さけ》んでいた。 「エネク!」  その言葉は半ば反射的なものだったに違いない。  それでも、我輩は主の下僕にして、誇《ほこ》り高き騎士《きし》である。  その命《めい》と杖《つえ》に従い、我輩は走り出していた。  視線の先では、襲撃者が自らの体に飛びついてきた者を振り払《はら》い、倒《たお》れたところにその剣を突《つ》き立てて、引き抜《ぬ》いた。  おそらくは興奮のせいであろう、襲撃者の足取りは酔《よ》っ払《ぱら》ったようにやや頼《たよ》りない。  これならば我輩の敵ではない。  草が我輩《わがはい》の足音を消し、馬小屋かなにかが燃える音も味方をしてくれた。  襲撃《しゅうげき》者は我輩にまったく気がつかず、這《は》うように逃げる巡礼《じゅんれい》者らしき男に歩み寄っていく。  巡礼者らしき男はついに観念したのか、がくりと膝《ひざ》をつくと天に向かって祈《いの》り始めた。  その背後ににじり寄り、剣《けん》を振《ふ》り上げる襲撃者の顔は嗜虐《しぎゃく》的な笑《え》みに満ちていた。  そして、振り上げた剣を無防備な相手の背中に突き立てようとしたその瞬間《しゅんかん》、視界をなにか黒いものが横切った。  きっと、彼《か》の者はそう思ったであろう。  されど、その瞬間には我輩の牙《きば》が男の右|腕《うで》を捉《とら》えており、剣はあらぬ方向に飛んでいった。  我輩の牙は筋張った山羊《ヤギ》の後ろ足ですら噛《か》みちぎる。  顎《あご》の中でぼきりと骨の折れる音がして、我輩は口を離《はな》す。  闇《やみ》の中で悪魔《あくま》を見た。  そんな顔をして、男は尻餅《しりもち》をつき、我輩はその男の右ふくらはぎに容赦《ようしゃ》なく噛みついた。 「助けてくれええええ!」  迂闊《う かつ》だった、と思った時にはすでに遅《おそ》かった。  その声に顔を上げれば、旅籠《はたご》の入り口にはやはり剣を持った別の男がいる。  我輩が視線を巡《めぐ》らせれば、主《あるじ》はこちらに向かって走ってきている。  こうなると、一件落着と相成るには敵の全滅《ぜんめつ》以外にない。 「おい、どうした!」  入り口に立つ男は幸いにして主に気がついていない。  我輩は即座《そくざ》に目の前の男を蹴倒《け たお》しながら飛び越《こ》え、まっしぐらに走り出す。  視線の先には驚愕《きょうがく》と、そして恐怖《きょうふ》に満ち満ちた顔があった。  おそらくは盗品《とうひん》であろう、重そうな麻袋《あさぶくろ》を捨て、剣を構えた男に向かって我輩は牙を剥《む》く。  この闇夜の中、我輩はきっと連中の目には狼《オオカミ》に見えていたはずだ。不本意なことではあるが、我輩は存分にそれを利用させてもらった。  剣を武器ではなく、盾《たて》のように突き出すへっぴり腰《ごし》の男に飛びかかり、顔を少しかじった直後にはあっさりと気を失っていた。建物の中は荒《あ》らされており、外に逃《に》げ出した者と同じ服装をした人間が三人倒れていた。  直後、気配のしたほうに視線を向ければ階段を下りて来る者がいる。その格好から、騒《さわ》ぎを聞きつけた襲撃者だとわかった。向こう側《がわ》もこちらに気がつき、互《たが》いに目が合った。  されど、相手は血の滴《したた》る我輩の顎を見るなり絶叫《ぜっきょう》し、下りかけていた階段を駆《か》け上る。  我輩としては上から飛びかかるよりも下から飛びかかるほうが断然に有利である。三歩で階段にたどり着き、次ぐ二歩で階段を上がりきる途中のその男の足に噛みついた。階段の上に転び、この世のものとも思えぬ絶叫ののちに男は錯乱《さくらん》して足をばたつかせ、我輩は不覚にも男の足から口を離してしまっていた。  それが幸いであったのは、男がそのまま階段から転げ落ちたからだ。  右足と左|腕《うで》が不思議な曲がり方をしてはいたが、どうやら生きてはいるらしい。  我輩《わがはい》は階段の上からやれやれとその男を見下ろして、ついに建物の中は完全に静まり返った。  耳には離《はな》れの小屋が燃えている音がするし、匂《にお》いからすればこの母屋《おもや》が燃えるのにもそれほど時間がかからないであろう。心配といえば他《ほか》にも敵の仲間が隠《かく》れているかもしれないことであるが、確認《かくにん》よりも主《あるじ》の身の安全だ。我輩は階段を駆《か》け下りて、屋敷《や しき》から飛び出そうとして足を止めた。  ちょうど人が入ってくるところであり、それは我輩が最初に目視した人間であった。髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた男であり、邪魔《じゃま》そうな裾《すそ》の長い服に身を包み、今は右の腰《こし》あたりが血で染まっている。  顔色が悪いのは必ずしもその傷だけが原因ではないようだった。 「おお……おお……なんということだ……」  建物の中の惨状《さんじょう》を目《ま》の当《あ》たりにして、男は膝《ひざ》をついてうつむいた。  似たような服を着ているから、床《ゆか》に倒《たお》れている三人は仲間なのであろう。  我輩はその男の側《そば》をすり抜《ぬ》け、外に出ると主が不安そうに杖《つえ》を抱《だ》きながら立っていた。  そして、我輩の姿を見るや駆け寄ってきて抱きついた。 「ああ、無事でよかった」  自分でけしかけておいて無事もなにもあったものではないが、主の性格ならば一連の判断は仕方のないことであろう。そんなことを思いながら主の向こう側《がわ》に視線を向ければ、剣《けん》を突《つ》き立てられていた男の顔には布が掛《か》けてあった。 「盗賊《とうぞく》は全部?」  ひとしきり我輩を抱きしめて安心したのか、主は体を離すやそう聞いてくる。  我輩は答えようがなく一声だけ吼《ほ》えたのであるが、その言葉に返事をしたのは入り口でうなだれていた男であった。 「賊は全部で三人でした……」 「あと、一人?」  主の問いに、男は首を横に振《ふ》った。  階段の下に倒れている男で三人ということになる。  我輩の孤軍奮闘《こ ぐんふんとう》ぶりを主にも見せたかった。  そう思って主を見上げると、なんと隣《となり》の男はこんなことを呟《つぶや》いたのである。 「神よ、せめてもの幸運を、感謝します……」  幸運を授《さず》けたのは我輩であり、我輩を従えていた主だというのに。  主が首筋を撫《な》でてくれていなければ、吼えていたやもしれなかった。 [#改ページ]  髭面《ひげづら》の男は、ジョゼッペ・オーゼンシュタインというらしい。  ここより歩いて三週間ほど西に行ったところにある教会の司教であるという。  我輩《わがはい》は世の役に立たぬ者を救ってしまったと悔《く》いたのであるが、主《あるじ》はそうではなかったらしい。教会にはひどい目に遭《あ》わされていながら、ジョゼッペ某《ぼう》の自己|紹介《しょうかい》を聞くや膝《ひざ》をついて頭をたれてしまったのである。  情けない、我が主よ! 「お顔を上げてください。貴女《あなた》はまさしく神に遣《つか》わされし天使なのですから」  髭面のジョゼッペが居丈高《いたけだか》な対応をしたら、我輩は主の騎士《きし》として相応《ふさわ》しい振《ふ》る舞《ま》いをするつもりであったが、どうもそういうわけではなかったのでひとまず牙《きば》は収めておくことにした。  年齢《ねんれい》でいえば主の数倍はありそうなジョゼッペは、主に深く感謝をしているようであった。 「いえ、私は……私よりも、このエネクに」 「おお、そうですね。エネクと申されるのですか。真《まこと》に、あなたは私の命の恩人です」  腰《こし》の傷が思いのほか深く、止血を試みてはみたものの、主の知識ではさほどうまくいっているようには思えなかった。そのせいか、ジョゼッペの顔色は紙のように白かったが、我輩に向けて真摯《しんし》に感謝するその笑顔《え がお》はなかなかに気持ちの良いものであった。  我輩も騎士であるから、感謝をされれば素直《す なお》に受け取り、胸を張ってすましておいた。 「ですが……神が我々に与《あた》えた試練はあまりにも重い……」  ジョゼッペが教会から連れてきたという仲間は、一人の青年を除いて全《すべ》てが殺されていた。  残った彼も頭に大きな怪我《けが》を負っており、意識はない。  やはり主が応急の処置を施《ほどこ》したのであるが、どうなるかはまさしく神のみぞ知るであろう。 「宿の人は、もう、すでに?」  我輩が瞬《またた》く間に叩《たた》き伏《ふ》せた盗賊《とうぞく》連中は主が全員|縛《しば》り上げ、旅籠《はたご》を囲む柵《さく》にくくりつけてある。 「いえ……ここは空き家だったのです。私たちは厩《うまや》を借りて夜をすごしていたのですが、どうやら、連中はそんな旅人を狙《ねら》っているようでした。しかも、鳴呼《ああ》、恐《おそ》ろしい……。連中は、異教徒だったようです」 「……鏃《やじり》の、首飾《くびかざ》りですね?」 「ご覧になられましたか。そうです。彼らは東の険しい山々で今も暗躍《あんやく》している魔道師《ま どうし》の子孫です。我々が寝静まるのを待ち構えていたようです。命を失うことになった三人は旅の護衛をお願いしていた傭兵《ようへい》でした。彼らは機敏《き びん》に、そして勇敢《ゆうかん》に私どもを守るために戦ってくれましたが、力|及《およ》ばず……」  我輩はそれで合点《が てん》がいく。  入り口からすぐのところで倒《たお》れていた者のうち二人は、服装こそ同じではあるが明らかに我輩と同じ匂《にお》いがした。  すなわち、戦いに身を置く者である。 「ですが、ここで旅を諦《あきら》めてしまうわけにはいきません。どうしても、なのです」  ジョゼッペは力強く言い、そして咳《せ》き込んだ。  嫌《いや》な予感がする。  我輩《わがはい》は小さく喉《のど》をくぐもらせるように震《ふる》わせたのであるが、主《あるじ》の耳には入らなかったようだ。  痛ましそうな顔をして、ジョゼッペに手を貸すとこう言ってしまったのである。 「行き先は、どちらなのでしょうか」  主よ!  我輩は己《おのれ》が人の言葉を持たないことにこれほどじれったくなったことはない。主は自らの夢を叶《かな》えるためにクスコフの町に向かっている最中ではあるまいか。旅の途中《とちゅう》で困難に巻き込まれ、道半ばにして斃《たお》れることなど日常|茶飯事《さ はんじ》ではあるまいか。  ならば他人の目的を自らの目的に優先させるなどなんという愚《おろ》かなことであろう!  我輩はおとなしく座ってはいたものの、内心をそのように荒《あ》れ狂《くる》わせながら主とジョゼッペの様子を見つめていたのである。 「ごほ……申し訳ありません。ええ、私どもの目的地は……」  これを聞いたら手を貸さないわけにはいかなくなる。我輩はいてもたってもいられなくなったのであるが、他人の口に戸は立てられぬものである。  ジョゼッペが、ゆっくりと口を開いた。 「クスコフなのです」 「え?」  我輩の耳もピンと立ってしまい、主に視線を向けてみると、主もまた驚《おどろ》いているようではあった。 「ご存じでしょうか。疫病《えきびょう》に侵《おか》され、神の教えも導きもなく、暗闇《くらやみ》と悲しみに覆《おお》われてしまっているという町なのですが」 「は、はい。私たちもそこに向かう途中だったんです」 「なんと」  ジョゼッペは心底驚いたといった顔をして、やがて教会の人間が神に祈《いの》る時のお決まりの仕草をして、目を閉じた。我輩が尾《お》を右に左にと大きく揺《ゆ》らしていたのは、次にジョゼッペがなんというか、我輩にも予測がついたからである。 「まさしく神のお導き……。このように言うことが心苦しくないわけではありません。ですが、この神の僕《しもべ》の願いを一つ聞き届けてはいただけないでしょうか」  我輩はジョゼッペの顔を、次いで隣《となり》の主の顔を見る。主は真摯《しんし》に、なにか重大な使命でも賜《たまわ》ろうとしているかのように、ジョゼッペのことを見つめていた。  仮に人の言葉が使えたとしても、止めることはきっと無理だったであろう。 「なんなりと」  ジョゼッペはその言葉に目を閉じて、そして、開いた。 「我々をクスコフまで連れていっていただけませんか」  主《あるじ》はしっかりとうなずき、ジョゼッペの手を取った。  我輩《わがはい》は、主のお人好《ひとよ》しさに少々げんなりとして、体を伏《ふ》せて燃え落ちる旅籠《はたご》のほうを向いたのだった。 「なるほど。職人になるためにクスコフに……」 「はい。旅の商人の方に聞いて」 「左様ですか。ですが、クスコフに行くというのは大変な勇気が必要だったのでは……という言葉は失礼ですね。貴女《あなた》方は大変な正義と勇気の持ち主です」  ジョゼッペが乗っているのは彼らが乗ってきた馬であった。  もう一人、意識を失ったままの青年は荷物を運ぶための背の低い騾馬《ラバ》に乗せている。  盗賊《とうそく》と亡骸《なきがら》はそのままにしておくほかなかった。 「いえ、私も心の底では怖《こわ》いんです。それでも、叶《かな》わないと思っていた夢ですから」  主が照れくさそうに喋《しゃべ》っているのは、それが本音だからであろう。 「夢、ですか。確かに、危険に立ち向かうためには夢が必要です。恥《は》じることはありません」  馬の上からジョゼッペは優《やさ》しげに微笑《ほほえ》み、主は仰《あお》ぎ見るようにそちらを見る。  我輩は、少し面白《おもしろ》くない。 「我々がクスコフに赴《おもむ》くのも、ある種の夢のためなのです。疫病《えきびょう》に襲《おそ》われ、神の僕《しもべ》が皆《みな》天に召《め》され、しかしその風評のせいで新たな蝋燭《ろうそく》に火をつけることも叶わず、暗闇《くらやみ》の中で震《ふる》えている彼らの光明となれるように。そう思って、我々ははるばるクスコフへとやってきたのです」 「そうなのですか……」 「町での任務は困難を極《きわ》めると覚悟《かくご》して教会を出てきたつもりですが、まさかそこに向かう途中《とちゅう》でこのようなことになるとは思いもしませんでした」  哀《かな》しげにではなく、やや疲《つか》れてしまったといったふうな笑顔《え がお》は好感が持てるものであった。  そういえば、この男は自らの命がもはやこれまでと思った時、無様に命|乞《ご》いをするでもなく、取り乱すわけでもなく、天に向かって祈《いの》っていたことを思い出した。  我輩は教会を許すわけにはいかないが、職務に忠実なのは褒《ほ》めるべきところである。  その点では、このジョゼッペはそれほど悪い人間ではないのかもしれない。 「私は見てのとおりにしがない教会の司教でありますから、なにか特別なお礼ができるというわけではありません。ですが、できる限りのお礼をさせていただければと思います」 「いえ、そんな」  主が慌《あわ》ててそう言うのを笑顔で制して、ジョゼッペはなかなか頑固《がんこ》そうな口調でこう言った。 「私は危《あや》うく異教徒の凶刃《きょうじん》の下《もと》に命を落とすところでした。そこを救われ、また、それが闇《やみ》の中で神の光を待つ者たちの下へと赴《おもむ》く途中《とちゅう》であった、というのはあまりにも象徴《しょうちょう》的なことです。ですから、せめてそちらの勇敢《ゆうかん》なるお連れの方にだけでもお礼をさせていただければと思います」 「エネクに、ですか?」  それは我輩《わがはい》にも意外であり、顔を上げるとジョゼッペは他意のない笑顔《え がお》を向けてきて、やや面食らってしまう。  獣《けもの》である我輩にそんな笑顔を向けてくるのは、我が主《あるじ》くらいのものだと思っていたからだ。 「神はこの世の全《すべ》てをお造りになられました。ならば人もその他《ほか》も神の前では同じもの。草や木に名前を、馬や鳥に愛情を、そして気高き勇気のある者には全て等しくその栄誉《えいよ》を与《あた》えるべきだと思います」  我輩が主を見上げると、主もこちらを見下ろしてくる。  そして、揃《そろ》ってジョゼッペのほうへと視線を向けると、傷ついた司教は少しだけ楽しそうに笑って、こう言ったのだった。 「私は、クスコフの町に着いたら勇気ある神の僕《しもべ》であるエネクに、ジョゼッペ・オーゼンシュタインの名と神の栄光の下に、教会|騎士《きし》の称号《しょうごう》を授《さず》けたいと思います」  我輩にはそれがどういうものなのかさっぱり見当もつかなかったのであるが、騎士と名のつく称号《しょうごう》が貰《もら》えるならば断る理由もない。  そう思って主《あるじ》のほうを見ると、主は言葉もなく驚《おどろ》いているふうであった。 「もちろん、貴女《あなた》にも是非《ぜひ》お礼を……」  ジョゼッペは言いながら、ふとなにかに気がついたように前方に視線を向けた。  ちょうど雲の切れ間から月がその顔を覗《のぞ》かせたところであり、広がった視界の向こうに町の姿が見えたのだ。  目的地のクスコフ。  どうやら、我輩《わがはい》らはあんなところで野宿しなくとも、あるいはこのジョゼッペらがあの旅籠《はたご》で夜を明かそうとしなくとも、もう一《ひと》踏《ふ》ん張《ば》りの距離《きょり》だったらしい。  まったく、世は巡《めぐ》り合《あ》わせである。  そう思ったのが我輩だけでないのは、互《たが》いに苦笑いせざるを得ないジョゼッペと主を見れば、一目瞭然《いちもくりょうぜん》なのであった。  クスコフの町は、石の壁《かベ》でぐるりと周りを囲めるほどに立派な町であった。もちろんリュビンハイゲンなどとは比べるべくもないのであるが、ここまでしっかりした町だと深夜の訪問で門を開けてもらえるかと心配してしまう。  ただ、それはほどなく杞憂《き ゆう》に終わることとなった。  司教であるジョゼッペが門の向こう側《がわ》の門番に名乗ると、その慌《あわ》てぶりは大変なものだった。  天の救いがついに来《きた》れり。  夜中に敵軍が急襲《きゅうしゅう》してきてもこうまで慌《あわ》てることはないであろう、というほどの大|騒《さわ》ぎぶりで、元来人前が得意ではない主などは扉《とびら》が開く前からその向こうから聞こえる騒ぎの声に身を小さくしていた。  これほど町の人間たちが待ち焦《こ》がれていた司教の到着《とうちゃく》であり、またその司教の命を途中《とちゅう》で救った者となれば大袈裟《おおげ さ 》な歓迎《かんげい》を受けるに違《ちが》いない。  主の顔は、雄弁《ゆうべん》にその心配を語っていた。  そして、やがて町の中で角笛《つのぶえ》まで鳴らされているのを知って、我慢《が まん》できなくなったようである。  馬の上で傷による不調をどうにか隠《かく》そうと頬《ほお》をこすったり咳払《せきばら》いを繰《く》り返すジョゼッペに、主はおずおずといった感じで申し出た。 「あ、あの」 「どうかされましたか?」 「えっと、その、お願いがあるのですが……」  すでに羊たちを導く者の顔になっていたジョゼッペは、柔和《にゅうわ》な表情で「どんなことでしょうか」と聞き返す。教会の連中はこの表情の下にどす黒いものを隠しているからたちが悪いのであるが、主《あるじ》はその表情に促《うなが》されるように、こう言った。 「私たちは、司教様たちをお連れしただけの者、ということにしておいていただけませんか」 「それは……」  と、ジョゼッペは目をぱちくりとさせ、やがてゆっくりとうなずいた。  頭の悪い人間ではないらしい。  扉の向こう側《がわ》から聞こえてくる、慌《あわ》てて閂《かんぬき》を外すような音を前に、ジョゼッペは馬の上から体をかがめ、主に向かって囁《ささや》くようにこう言った。 「貴女《あなた》方が立派な神の教えの下《もと》に生きていることに私は嬉《うれ》しさを堪《こら》えきれません。勇気と謙虚《けんきょ》さはなかなか同じ器に入らないものでありますから。その願い、承知《しょうち》しました。ですが、神はもちろん、私も貴女方に対する感謝の気持ちは忘れません」  扉がゆっくりと開かれ、ゴウゴウと焚《た》かれている松明《たいまつ》の灯《あか》りが目に痛いくらいに漏《も》れ出てくる。  ジョゼッペは体を起こし、主は救いを求める羊のようにそちらを見る。  ジョゼッペの振《ふ》る舞《ま》いのうまさに我輩《わがはい》はどうしても胡散臭《うさんくさ》さを感じてしまうのであるが、こちらに向けて小さく頭を下げたのを見て、我輩の尻尾《しっぽ》はつい動いてしまう。  何事にも、例外はあるものである。 「では、そういうことで」  ジョゼッペが秘密を共有する子供のように笑いながらそう言うのと、門が開くのは同時であった。時刻が時刻ということもあって扉《とびら》の向こう側に居並ぶ連中は着の身着のままであり、寝癖《ね ぐせ》がついているのも珍《めずら》しくはないし、慌てて出迎《で むか》えに来た娘《むすめ》たちの中には今もって必死に櫛《くし》で髪《かみ》を梳《と》かしている者たちの姿もちらほら見えた。  そんな中、見張り番と思われる槍《やり》を持った男二人の間を割ってこちらに向かって進み出てきたのは一際《ひときわ》身なりの良い、小僧《こ ぞう》かと思うほどに幼い若造であった。  明らかに今しがたまで熟睡《じゅくすい》していたとわかるのは、目の縁《ふち》が真っ赤であるからだ。  それでも髪をくるりと跳《は》ねさせて、肩《かた》に掛《か》けている毛皮の縁取りがされた立派な外套《がいとう》を翻《ひるがえ》し、先の尖《とが》った靴《くつ》を顕示《けんじ》するように歩くその様からは、群れの長たる威厳《いげん》を若干《じゃっかん》なりとも感じ取ることができた。  我輩が敬意を表し、腰《こし》を下ろしてぴしりと前脚《まえあし》を揃《そろ》えて胸を張ったのは、彼《か》の者《もの》が精一杯《せいいっぱい》背伸《せ の》びしてそのように振る舞っていることがわかったからだ。  群れを治めるためにはなめられてはならぬ。  されど、その重責たるや想像を絶するものがある。  この若造がしっかりと準備をしたうえでこの地位についたとはとても思えなかった。  疫病《えきびょう》とは、年寄りから順に掻《か》っ攫《さら》っていくものである。 「我が名はトリー・ロン=クスコフ・カレカ。クスコフ参事会代表であります。神のお導きの下《もと》に、あなた様のご訪問を心より歓迎《かんげい》いたします」  若い声である。かねてより町の事情を知っているジョゼッペも、きっと我輩《わがはい》と同じことを思っていたに違《ちが》いない。我輩らと話していた時よりもよほど丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》を返した。 「馬上から失礼いたします。我らが神の祝福の下《もと》にある町クスコフが、聖なる蝋燭《ろうそく》の灯火《ともしび》を求めて我が教会に書簡を送られた経緯、察するにあまりあります。ですが、神はあなた方をお見捨てにはなりません。私自身の力は矮小《わいしょう》ながら、神の力は偉大《いだい》です。ご安心ください。今日この場この時刻より、この町には神の灯火がともることでしょう」  よく通る声である。  民衆らは固睡《かたず》を飲んでその一言一句《いちごんいっく》に耳を傾《かたむ》け、ジョゼッペが語り終わった直後は水を打ったように静かであった。  それが漣《さざなみ》のように最初は小さく、やがて怒涛《ど とう》のような歓声《かんせい》に変わり、まるで長い長い戦《いくさ》が終わったことを告げられたかのような喜びようとなった。 「長い旅路ご苦労様でした、司教様。今晩はごゆるりと長旅の疲《つか》れを……」  長ったらしい名前のカレカは、言いながらジョゼッペに歩み寄ってようやく気がついたようだ。 「司教様、お顔の色が……」 「私よりも、彼のほうを先に」  ジョゼッペがそう言って後ろを指差すと、ようやくカレカの目に騾馬《ラバ》が入ったらしい。  その少女のようにすら見える顔が、驚愕《きょうがく》で固まった。 「誰《だれ》か! 手当てを!」  カレカが叫《さけ》び、喜びに満ちていた民衆の騒《さわ》ぎがぴたりと収まり、直後にどうして司教たちがこんな時間に町にやってきたのかということを悟《さと》ったらしい。夜盗《やとう》に襲《おそ》われ命からがら門を叩《たた》く者たちの存在はそう珍《めずら》しいことではない。  我輩らも羊を守るなかで、幾人《いくにん》かのそういった者たちと出会ったことがある。司教は慌《あわ》てて駆《か》け寄ってきた者たちにゆっくりと馬から下ろされ、傷の具合を冷静に説明している。  騾馬のほうに駆け寄ったのは戦場での経験がありそうな連中だ。  傷の具合を見るや女たちに指示を出している。  我輩らといえば、ジョゼッペが約束どおりに我輩らのことを説明してくれたお陰《かげ》で、カレカから手短な感謝の言葉を受けただけであった。  実際に危険を冒《おか》し、勇猛果敢《ゆうもうか かん》に戦った我輩からすればやや不満ではありながらも、ジョゼッペは感謝の念を忘れてはいないであろうし、なによりも主《あるじ》が理解してくれている。主は我輩の頭を手荒《て あら》く撫《な》でて、「邪魔《じゃま》にならないように離《はな》れてよう」と入り口の脇《わき》のほうに歩いていった。  この騒ぎっぷりを見れば、主が事実のとおりに我々がこの司教の命を救ったのであると言えば、きっと職人になるという夢など容易《たやす》く叶《かな》うことであろう。  我輩はもったいないと思うのであるが、また同時にそんなふうに謙虚《けんきょ》な主のまっすぐさに敬意を抱《いだ》かずにもいられない。そう思って主《あるじ》のほうを見上げると、主も我輩《わがはい》の視線に気がついた。 「どうしたの?」  我輩は言葉を持たぬものであるから、その問いかけには返事をしなかった。  それに、我輩は主に仕える身であって、わざわざ主の素晴《すば》らしさを口に出すような嫌《いや》らしい下僕ではない。  我輩は主から視線を外し、運ばれていくジョゼッペらのことを見つめていると、不意に頭に重さを感じ、見れば主の手であった。 「もしかして、感謝のご馳走《ち そう》とか期待してたんじゃないでしょうね」  心外である。  我輩は抗議《こうぎ》の意味を含《ふく》めて小さく吼《ほ》える。主は時折こんな意地悪を言ってくるのであるが、それとも我輩はそんなふうに見えるのであろうか。  若干《じゃっかん》傷ついていると、今度は主ががばっと我輩に抱《だ》きついてきた。  ジョゼッペが運ばれていくと、門の周りには誰《だれ》一人としていなくなってしまっていた。  我輩らは完全に忘れられてしまったわけで、繊細《せんさい》な主にはそれが寂《さび》しかったのかもしれぬ。  そう思ってすぐ側《そば》にある主の顔をなめようとしたら、主は一人でくすくすと笑いながら、こう言ったのである。 「私もね、ちょっと期待してたんだ」  主は意外に食い物には意地|汚《きたな》い。  されど、水が綺麗《き れい》すぎても魚は住むことはできぬ。  我輩は主の頬《ほお》を一なめして、短く吼えておいたのだった。         二  よく脂《あぶら》を練《ね》り込んだ真っ白な焼き立ての小麦パンはまるで味付きの雲を食《は》んでいるふうであったし、牛肉の切り身は一度|茄《ゆ》でてから焼いた贅沢《ぜいたく》品である。生活は質素ながら、それなりに食べ物についてはうるさいとの自負がある我輩も満足の逸品《いっぴん》であった。  不満といえば食事の量が少なかったことであるが、早々に平らげて皿をなめ終わると、主が笑いながら肉の一切れを分けてくれた。 「足りないでしょ?」  全部お見通しなのである。  我輩はありがたく頂戴《ちょうだい》してから、主の足に顔をこすりつけた。 「宿代と食事代は必要ないんだって」  我輩《わがはい》のように皿をなめない主《あるじ》ではあるが、肉汁《にくじゅう》が残っているのを看過できるほど上品でもない。パンをちぎって皿を拭《ふ》きながら食べ、満面の笑《え》みを浮かべている。 「でも、晩ごはんはライ麦パンにしておきましょう、て台所で話しているのを聞いちゃった」  いたずらっぽく言う主に、我輩はやれやれとため息をついて、腹ばいに寝《ね》そべったのである。 「まあ、町は大変そうだもんね。きっと、本当になけなしのパンなんだよ、これ」  我輩は片耳だけ上げて主の声を聞く。  顔を上げなかったのは、主が明るい顔をしているとはとても思えなかったからである。  であるから、顔を上げる代わりに主の足首をぺろりとなめておいた。 「こらっ」  と、怒《おこ》ってつま先で突《つ》ついてくるのは、主がくすぐったがりであるからだ。  草で足を切るなどままあることで、その時に都合よく傷を洗う水があるという保証もない。  そんな時には我輩がなめるほかないのであるが、主は痛みを堪《こら》えるよりも笑うのを堪えて顔を真っ赤にしているのである。尖《とが》った石を踏《ふ》んだ時などは、あまりのくすぐったさに堪えきれなかったのか、思わず足を投げ出して我輩の顔を蹴《け》っ飛ばしたりもしたくらいなのだ。  そのくせ、裸足《はだし》で我輩の背を撫《な》でるのは好きらしい。  最後のパンを口に放《ほう》り込んで、もぐもぐと咀嚼《そしゃく》しながら我輩の背を素足《す あし》で撫でていた。 「さて」  ひとしきり食後の余韻《よ いん》も味わったようで、主は一声かけると椅子《いす》から立ち上がった。 「一度教会に行ってから、商館かな」  食器を重ねてから外套《がいとう》を羽織り、鐘《かね》を外した羊飼いの杖《つえ》は少し迷った末に壁《かべ》に立てかけたままであった。旅の途上《とじょう》ならばまだしも、町の中で杖をつく者は大抵《たいてい》が白い目で見られてしまう。  それは占《うらな》い師か、魔術《まじゅつ》師か、あるいは羊飼いであるからだ。  我輩は羊飼いの仕事に対して誇《ほこ》りを持ってはいるものの、長いこと人の世の仕組みを目《ま》の当《あ》たりにしてきてそのような偏見《へんけん》は致《いた》し方《かた》のないことである、という諦《あきら》めにも似た感覚を持っている。  それは人である主であればなおさらで、杖を壁に立てかける時の横顔はひどく寂《さび》しそうであり、また不安そうであった。 「ん……大丈夫《だいじょうぶ》」  我輩が主の足に鼻を押し当てると、主はふと我に返ったようで力なくそんなふうに言った。  主は一言も口にしたことはないのであるが、職人になりたがっている理由の一つには誰《だれ》からも後ろ指を差されない仕事につきたい、ということがあるはずだった。我輩はそれを責めはしないし、そう思うのもむべなるかな、とすら思う。  主の話し相手といえば我輩か羊くらいのもので、笑顔《え がお》を見せるのはまず間違《ま ちが》いなく我輩ら獣《けもの》の類《たぐい》にだけである。羊飼いには往々にしてそんな傾向《けいこう》があり、その子供が半獣半人《はんじゅうはんじん》であるといういわれなき風評が立つのも仕方のないことなのかもしれぬ。  そして、そんな風評がまた彼らを孤独《こ どく》にしていくのであり、やがて彼らと町の人間は互《たが》いに憎《にく》み合うようになる。  主《あるじ》はとっくに人が嫌《きら》いなのではあるまいか。  そのように思うことすらあった。 「大丈夫《だいじょうぶ》だって。ほら」  主は笑い、我輩《わがはい》の顔を両手で包む。  無理やりに頬《ほお》を歪《ゆが》めるその形がなにを表すのか我輩は知っている。  人の顔による、笑顔。  されど、我輩はそのように笑う『人』ではないのである。 「……ごめんね。嘘《うそ》。実はすごく不安」  なにが不安なのか、とは問いはすまい。  この町に入る直前、町の人間に感謝されるのが嫌《いや》でジョゼッペに申し出をしたくらいである。  主が賓客《ひんきゃく》としてこの宿をあてがわれた時の恐縮《きょうしゅく》っぷりも見ていて痛々しいほどであった。  羊飼いの杖《つえ》を置いていくということは、主は羊飼いではなく普通《ふ つう》の旅人として町に出ることになる。  果たして普通の「人」のように振《ふ》る舞《ま》えるのかどうか。  誰《だれ》よりも主自身が不安で仕方ないのであろう。 「でも」  と、主は顔を上げると、力強くこう言った。 「前に進まないとね」  強き者とは、弱いところのない者のことではない。  己《おのれ》の弱いところを克服《こくふく》できる者のことである。  我輩が一声|吼《ほ》えて、主は立ち上がったのであった。  クスコフの町中に出ると、そこは闇《やみ》の中で見ればまるで見捨てられた廃墟《はいきょ》のようであり、その印象は日が昇《のぼ》ってからもあまり変わることがなかった。我輩《わがはい》らがあてがわれた宿は町の目抜《めぬ》き通《どお》りに面していたのであるが、右を見ても左を見ても殺風景であり、木窓を閉じたままの建物のほうが多かった。  道を行く人の数も少なく、その誰もがどことなく足音を忍《しの》ばせるように歩くのである。  主の鼻でわかるかどうかは定かではないが、風には死臭《ししゅう》がまざり、よく目を凝《こ》らせば通りの隅《すみ》に掃《は》き集められているものが骨であることがわかる。  路地では道行く町の人とは正反対に丸々と肥えた犬が寝《ね》そべっており、胡乱《う ろん》げな目をして通りを眺《なが》めていて、その脇《わき》をやはり丸く太った鼠《ネズミ》がちょろちょろと駆《か》け抜《ぬ》けていた。彼らがなにによってその身を肥えさせているのか、というのは町の人間|全《すべ》てが口に出さぬ事実であろう。  主《あるじ》もそれに気がついているのか、狼《オオカミ》が現れる森を抜ける時よりも我輩《わがはい》を側《そば》に引き寄せて歩いていた。  そんな町の通りで時折元気そうな者とすれ違《ちが》ったかと思えば、身なりからして町の外からやってきた商人連中のようであった。彼らは金さえ儲《もう》かれば他人の命はおろか、自分の命すらどうでもよい、と思っていかねない。  であれば、町がこんな状況《じょうきょう》であっても他《ほか》の町同様に振《ふ》る舞《ま》うのも、それほどおかしなことではないだろう。  そんなことを思っているうちに、我輩の耳にちょっとしたざわめきが聞こえてきた。  顔を上げれば視線の先には人だかりができていて、彼らは見なれた象徴《しょうちょう》が掲《かか》げられた建物の前に集まっていた。この町の教会であろう。  さしずめ、集まる者たちは心の平穏《へいおん》を求めるさまよえる子羊であろうか。  我先にと中に入りたがっているその必死な様子は、皮肉にも心の平穏からは程遠《ほどとお》いものではあったのだが。 「すごい人だね」  主は素直《す なお》に驚《おどろ》いているふうである。  確かに、この分ではあのジョゼッペらに会うのは難しいことかもしれない。 「邪魔《じゃま》しても悪いし、あとにしよっか」  理に適《かな》った判断であろう。  我輩は尻尾《しっぽ》をぱたりと振って、同意したのであった。  それから第二の目的地である商館とやらにたどり着くのはそれほど難しいことではなかった。  町の規模は立派なものでありながらも、とにかく通りがすかすかなので歩くにはなんの支障もない。道を行く者に二度道を尋《たず》ねただけで、時間的にはあっという間に着いた。  主は単に商館と呼んではいるが、確か正確にはローエン商業組合の商館であったはずである。  群れを作るのはなにも馬や羊だけでなく、人もまた同じであるらしい。同郷の者たち同士で群れて、互《たが》いの商売にとって有利になるように事を運ぶのはこれもまた理に適った行動である。  そして、彼らの様々な町での拠点《きょてん》がこの商館というものらしい。  主は羊飼いを廃業《はいぎょう》する時に、別の町のこの商館に世話になったようで、言うなればこの群れとは関《かか》わりがあるというわけだ。人の字で書かれた紹介《しょうかい》状というものも懐《ふところ》に忍《しの》ばせているはずである。それなのに、主は建物の前で三度深呼吸をしていた。  羊飼いを廃業するに至った一|騒動《そうどう》の際も、何度くじけそうになったことか。  我輩が鼻でせっつくと、主はようやく建物の扉《とびら》をノックして、中に入っていった。 「んお、いらっしゃ……」  い、と続かなかったのは、主《あるじ》の姿がこの場に似つかわしくなかったからであろう。  主は初対面の相手に対して笑顔《え がお》がいかに大事であるかということを経験から学んでいる。  主の本当の笑顔を知っている我輩《わがはい》からすれば、ひやひやしてしまうような偽物《にせもの》の笑顔であるが、相手は十分に騙《だま》せたらしい。 「どのようなご用件でしょうか?」  柔和《にゅうわ》な表情と口調で、近くの椅子《いす》を示しながらそう言ってくれた。 「そちらの黒毛の方はお連れさんで?」  ただ、我輩も主のあとについていこうとしたら、そのような言葉を向けられた。 「あ、はい。あの……」 「ああ、いえ。大丈夫《だいじょうぶ》です。思い出しました。昨日町にやってきた方でしょう? 女の方の一人旅は危険ですからね。へたに男を護衛につけるよりもよほど頼《たよ》りになるでしょう」  髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた男は言いながら笑い、主は愛想笑いを返している。 「確認《かくにん》してしまったのはね、この町では犬はあまり縁起《えんぎ》のよい存在ではありませんから」  疫病《えきびょう》がひとたび町で流行《はや》れば通りといわず路地といわず、そこかしこが人の死体であふれるという。夜中にこりこりと音がするので窓を開けてみれば、無数の野犬が人の死体をむさぼっている音であった、というような我輩にも人にも不快な話があるくらいだ。  主は椅子に腰掛《こしか》け、その側《そば》に腰を下ろした我輩の頭を撫《な》でながら、気まずそうに相槌《あいづち》を打っていた。 「で、それで、旅の方が当商館にどういったご用件でしょうか」  商人連中というものは話が早くて助かる。そう思ったのは我輩だけではないはずだ。  いったん椅子に腰を下ろした主は、慌《あわ》てて懐《ふところ》から一通の封書《ふうしょ》を取り出して、カウンターの中にいる男へと歩み寄ってそれを差し出した。  人の世では手紙の威力《いりょく》とは恐《おそ》ろしいものらしい。主が羊飼いを辞《や》めて当分は生活費の心配もなく暮らせるのも、どうやらこの紙の威力であるらしいのだ。 「おや、これは……ええと、リュビンハイゲンから? これはまた遠くから来ていただいたものだ」 「リュビンハイゲンのヤコブ館長にはとても良くして頂いて」 「ほほう。ならば私もあの髭|親父《おやじ》に負けないようにしなければなりませんね」  男は言って一人で大笑いをして、対応に困っている主に気がついたらしい。  わざとらしく咳払《せきばら》いをして、居住まいを正していた。 「ごほん。ローエン商業組合クスコフ商館にようこそ。私の名はアマン・グウィングドット。あなたの旅の中でこの町が良き思い出の場所となるように、またローエン商業組合の名が光り輝《かがや》くように、あなたの旅に手を貸しましょう」  商人連中というものはまったく一流の役者である。  主《あるじ》もまた背筋を伸《の》ばし、丁寧《ていねい》に礼を言って自己|紹介《しょうかい》をし、互《たが》いに握手《あくしゅ》を交《か》わしていた。 「それで、ノーラさんは服の仕立て職人になりたいということですが」 「はい。この町はこれから人手が必要になるからとお聞きして」 「ええ、それは間違《ま ちが》いのないことです。クスコフの町はこの程度の疫病《えきびょう》でへこたれやしません。必ずや復活を遂《と》げるでしょう」  力強いアマンの台詞《せりふ》に主も屈託《くったく》なく微笑《ほほえ》んでいる。  ところが、ふとアマンの表情が翳《かげ》ったかと思うと、こんなことを言い出した。 「ですが、少し間《ま》が悪かったかもしれません」 「……と、いうと?」 「ええ。疫病の噂《うわさ》にも恐《おそ》れずこの町に来てくださったことは、クスコフの市民として感謝するところなのですが……」  アマンは言い淀《よど》み、それから口を閉ざしても仕方のないことだと思ったのか、思いきったように口を開いた。 「この町から疫病の勢いは消え去りつつあるのですが、ご覧のように町は惨憺《さんたん》たる有様《ありさま》です。町の商業は壊滅《かいめつ》的な打撃《だ げき》を受けて、未《いま》だ病床《びょうしょう》の上なのです。新しい職人を雇《やと》うどころか、既存《き そん》の職人連中すらが職を求めて町から離《はな》れたり、といった具合でしてね……。ただ、顔をつなぐのは良いことだと思います。町は必ずや復活するのですから、その時に職人が必要になるのもまた確実です」  事前に聞いていた話とはまったく違う実情ではあるが、旅人からの情報には往々にしてそんなところがある。主は一言一言を飲み込むように聞き、最後の言葉にしっかりとうなずいた。 「服の仕立て職人ですよね? ならば、仕立て職人の組合長に紹介状を書いて差し上げます。なあに、お安い御《ご》用です」  そのあとに続いた陽気な笑い声はどことなくわざとらしい。  されど、疫病によって町が壊滅的な打撃を受けたとあってはアマンのように振《ふ》る舞《ま》えるだけで勇敢《ゆうかん》な証《あかし》なのかもしれぬ。主はひたすらに恐縮《きょうしゅく》してアマンから紹介状を受けとると、何度も頭を下げては礼を言っていた。主も他人の顔色を窺《うかが》うことでたつきを得ていたわけであるから、そのへんのことは察していたのであろう。  我輩《わがはい》らは商館をあとにしつつ、困難の中であっても我輩らのような旅の者に親切にできるアマンの心|優《やさ》しさにひとしきり感心したのであった。  それからしばらくして、我輩らはアマンに教えられたとおりの道順を歩いていき、目当ての建物の前にたどり着いた。石造りの壁《かべ》には針と糸巻きが描《えが》かれた鉄製の板が嵌《は》め込まれており、犬である我輩にもそこがなんであるかすぐにわかる。  主は今度は臆《おく》することなく扉《とびら》をノックしていたが、どうにも主は間が悪いらしい。  せっかく意を決して即座《そくざ》に扉《とびら》をノックしたというのに、扉の向こうに人の気配はなかったのである。 「……留守……なのかな」  残念そうに言う主《あるじ》に我輩《わがはい》はいちいち返事をしたりはしない。  後ろ足で首の付け根を掻《か》いて、それから大きく欠伸《あくび》をした。  主は我輩の振《ふ》る舞《ま》いから自分の言葉に対する返答を察したらしい。がっくりと肩《かた》を落として、「しょうがないか」と呟《つぶや》いた。我輩は同意の意味も含《ふく》めて一つ吼《ほ》えると、直後に踵《きびす》を返しかけた主が小さく息を飲んだ。  何事か。  我輩は腰《こし》を上げて振り向きかけた直後、視界が大きくぶれてよろめいてしまった。  不覚。  何者かの不意打ちであった。  我輩は地に背をつけ、前脚《まえあし》で天を掻く羽目になっていた。だがそこはそれ。前脚を即座にしまい、体をねじって大地を掴《つか》む。我輩に不意打ちを食らわせられるのは空に生きる鳥か、あるいは獣《けもの》にはできぬ戦い方をする連中だけである。  すなわち飛び道具を使う人間であり、我輩の頭を直撃《ちょくげき》したのも妙《みょう》な筒《つつ》のようなものであった。 「エネク!」  主の声が鋭《するど》く響《ひび》き、我輩の体はぶわりと膨《ふく》らんだことであろう。  されど、膨らんだそれが弾《はじ》けなかったのは、主の声が我輩をけしかけるものではなく、逆に我輩が弾けるのを止めるものであったからである。  我輩はたたらを踏《ふ》んで顔を上げる。  主よ、我輩は確かに攻撃《こうげき》を受けたのである! 「待ってください!」  しかし、主が再度発した言葉は、我輩に向けたものではなかった。 「私たちは旅の者で、この犬は伴侶《はんりょ》です!」  主は我輩が万が一にも飛びかからぬようにと我輩の体を抱《だ》きかかえていたが、我輩は喉《のど》の奥を震《ふる》わせるのをやめることはなかった。  我輩に一撃を食らわせた相対するその人物。  その若い女の目つきたるや、およそ話の通じるようなものとは思えなかったからである。 「……」  暗い、泥《どろ》の沈殿《ちんでん》した池のような目をした背の高い痩《や》せた女は、無造作にまとめただけの赤毛の隙間《すきま》からピクリとも動かさない不気味な視線を我輩に向けている。我輩が喉を震わせるのをやめなかったのは、その女の目がなにを考えているかまったく察せなかったからである。  しかし、主《あるじ》が我輩《わがはい》の体を押さえながらも、慌《あわ》ててアマンから受け取った紹介《しょうかい》状を懐《ふところ》から取り出すと、女の目に若干《じゃっかん》の動きが見えた。 「こちらの、仕立て職人の組合長の方にお話があって……」  主がそう喋《しゃべ》っているのを聞いているのかいないのか。  女は一度目を閉じると、ふいっと視線をそらし、歩き出した。  主もまた女の真意が掴《つか》めないらしく、我輩の体を抱《だ》く腕《うで》に力をこめてくる。  が、結局女は道に転がったままの我輩の頭を直撃《ちょくげき》した筒《つつ》のようなものを拾っただけで、その間一度も我輩らに視線を向けることはなかった。  そして、我輩らの横を通り抜《ぬ》けて扉《とびら》に手をかけると、こう言ったのであった。 「あんたが『灯火《ともしび》を持ってきた少女』か……」  値踏《ねぶ》みする様子を隠《かく》すこともせず、上から下まで嫌味《いやみ》ったらしく主を見てから、言葉を続けた。 「まあ、入れば?」  その視線にはなんとも言いがたい泥《どろ》のようなものがあった。それは我輩も匂《にお》いを嗅《か》いだことのある、墨《すみ》を溶《と》かしたように黒い泥だ。それは立ち上がろうとする者の足を取り、歩こうとする者の脛《すね》を掴む。  疫病《えきびょう》は人の命を奪《うば》うだけでなく、希望すらも奪うらしい。  まだ若い女は馬《うま》の尻尾《しっぽ》のようにくくられた赤毛を揺《ゆ》らし、暗い建物の中に入っていく。  その背中が建物の闇《やみ》に消え際《ぎわ》に、税輩の耳にははっきりとこんな言葉が聞こえてきた。 「私が組合長だよ。ここのね」  主の耳に聞こえたかどうか。  我輩はすぐ側《そば》の主の顔を見ると、どうやら聞こえていたようであった。  あのような目つきをした若い女がなにかしらの要職につく。  町の人間の半分が死ぬというのは、そういうことなのだ。  それでも、主は立ち上がって我輩を促《うなが》し、建物の中に入っていったのだった。  建物の中は薄暗《うすぐら》さとあの女のせいで若干《じゃっかん》不気味な感じはしていたものの、入ってみると思いのほか綺麗《き れい》に片づいていて感心した。質素ではあるがそれなりに造りのよさそうな家具は丹念《たんねん》に脂《あぶら》で磨《みが》かれた匂《にお》いがしていたし、壁《かべ》に備え付けの棚《たな》もすっきりしたものであった。  我輩の頭を直撃《ちょくげき》したものはどうやら反物《たんもの》であるらしいと気がつくのと、奥の部屋から女が再び姿を現すのは同時であった。 「……それで、なんの用?」  自己紹介すらない。主が慌ててアマンからの紹介状を手|渡《わた》すと、女は面倒《めんどう》くさそうに頭を掻《か》いて、唐突《とうとつ》に歩き出す。ぶっきらぼうとは違《ちが》う、もっと自分の感情を押し殺すようななにかのせいで、女の行動はなにもかもが唐突に見える。結局は文を読むために木窓を開けただけだったのであるが、どうもその一つ一つがとげとげしい。  少なからず、旅の人間に対する敵意のようなものがあるのかもしれない。  そのあたりのことについては我輩《わがはい》よりも鋭敏《えいびん》に察する主《あるじ》である。  見れば、足が少し震《ふる》えていた。  狼《オオカミ》の牙《きば》は肉体を殺し、人の敵意は精神を殺す。 「ふん……服の仕立て職人にね」 「お、お願いできないでしょうか」  女が呟《つぶや》くのと同時に、主は身を乗り出すようにそんな言葉を口にした。  人ではない我輩ではあるが、主のことならば手に取るようにわかる。  相手に嫌《きら》われているかもしれないというのは主のもっとも恐《おそ》れること。  そして、その恐怖《きょうふ》を押し殺すためには拳《こぶし》をぎゅっと握《にぎ》り締《し》めるほかなかったのであろう。  人はそれを、時として、悲壮《ひ そう》、とも呼ぶのかもしれない。 「……どうぞ」 「お願いします! 羊毛の良し悪しの見立てなら多少は——あ……え?」 「だから、どうぞ」  女は興味なさげに言って、テーブルの上に文《ふみ》を放《ほう》り投げた。  主は肩透《かたす》かしを食らったようで、二の句が継げないでいる。  しばらく口をぱくぱくさせてから、意地悪をされた子犬のような顔をしていた。 「なにか?」  疲《つか》れきった老婆《ろうば》のように椅子《いす》に座り、女は開けた木窓から入ってくる明かりに照らされたテーブルの上に目を落としていた。なにが載《の》っているのかは我輩の目線の高さでは確認《かくにん》できないが、テーブルの端《はし》からはみ出している筒《つつ》のようなものは我輩の頭を打った反物《たんもの》であろう。  であるとすれば、テーブルの上には服を仕立てるための一式が揃《そろ》っているのかもしれない。 「あ……いえ……その……」  主は女の視線に目を伏《ふ》せ、言い訳をするようにもごもごと口の中で言葉を噛《か》む。  今にも泣き出しそうな主を目《ま》の当《あ》たりにし、我輩は怒《いか》りを覚えて女を睨《にら》みつけた。 「なに? 試験でもして欲しい?」  女はせせら笑うように言った。  主がなにに戸惑《と まど》っているのか察していたのだ。  主の細身の体がびくりと震《ふる》え、獣《けもの》の中でもっとも恐《おそ》ろしいといわれる狼《オオカミ》の遠吠《とおぼ》えにすら怖気《おじけ》づかないその心が、女の剥《む》き出《だ》しの悪意に打ち震えている。 「するなら構わないよ。布裁《ぬのた》ち、糸の結び方、針の手入れ、毛皮の取《と》り扱《あつか》いに染色に関することだってある。試験することはたんとあるよ。このクスコフ仕立て職人組合の組合員に相応《ふさわ》しい腕前《うでまえ》かどうか私が調べてあげようか? 組合長たる、このアルス・ヴィッドがね!」  怒《いか》りのままにまくし立てるアルスと名乗った女に対し、主《あるじ》は言い返すことなどできるわけもない。文字どおり気圧《けお》されて、無様に後退し始めた。 「だけどね、ここには材料がなにもない。割れたボタンや、ほつれて消えてなくなりそうな糸や、折れ曲がって錆《さび》ついた針ならたくさんあるけどね。試験にそんなものは使えやしない。だったら、どうすればいいと思う?」  アルスが笑うのは面白《おもしろ》いからではない。  笑わなければ耐《た》えきれないなにかが胸の内からほとばしりそうだからであろう。我輩《わがはい》は年の功から、その女、アルスの様子がなぜこんなことになっているのか早々に察しがついた。  だが、主はそうもいかないらしい。  その剣幕《けんまく》に圧されながらも、健気《けなげ》に勇気を振《ふ》り絞《しぼ》って返答をした。  まったく、アルスの心中を察することもなく。 「お、お金なら、あり——」  我輩は、アルスの顔が憤怒《ふんぬ》のそれに変わるのを、目で見るよりも早くに頭で理解することとなった。 「お金! はっ! お金があったら買えるって? そうだろうね! でもね、よく聞きな! お金なんかなくたって綺麗《き れい》なボタンも、綺麗な布も、綺麗な針も、なにもかも手に入るんだ!」  テーブルを叩《たた》きながらアルスはまくし立てる。主は身を縮め目の前の惨状《さんじょう》にただ言葉を失うほかなく立ち尽《つ》くしていた。  残念ながら、我輩は助けることができない。なぜなら、アルスの気持ちがわかるからである。  彼女はなおもまくし立てる。 「あんたが聖典を逆さに持って神に呪《のろ》いの言葉を吐《は》きながら、墓場を暴《あば》いて死体を漁《あさ》ればね!」  強烈《きょうれつ》な皮肉であった。  人は死体を土に埋《う》める習慣がある。  そして、その時には大抵《たいてい》綺麗な服を着せ、なにかしらの豪華《ごうか》なものを共に埋めるのだ。  人は死ぬことを永遠の旅立ちなどというのであるが、装飾品《そうしょくひん》をたっぷり抱《かか》えた永遠の旅人が大勢町をあとにしたとなれば、その様はもはや略奪《りやくだつ》となんら変わらないのであろう。  我輩はそう考え、ようやくこの部屋の綺麗さに感心したことが、勘違《かんちが》いなのだと気がついた。  部屋が綺麗なのではない。  ここには、置くべきものがなにもないのだ。  まくし立て、疲《つか》れきったようにテーブルの上でうつむいていたアルスは、顔を上げて薄《うす》ら笑いを浮かべながらこんなふうに言葉を続けた。 「でも、お金があるんなら、どうだろう。組合加盟費だけでも払《はら》ってくれないかい?」  ぞっとする笑顔《え がお》であった。両手で握《にぎ》った短剣《たんけん》で、自分の頬《ほお》を切り裂《さ》いて作ったような笑顔にすら見えた。我輩《わがはい》ら獣《けもの》よりもよほど温厚な、子供のような顔をしている人のそれが、獣並みの迫力《はくりょく》を有しているところを想像せよ。  およそまともなものではない。  我輩は主《あるじ》の身の危険を心配して、その服の裾《すそ》を軽く噛《か》んだ。水の中に溺《おぼ》れいく者は藁《わら》にすらしがみつくという。疫病《えきびょう》が荒《あ》れ狂《くる》った町の絶望の泉の中で溺れるアルスは、主の足を掴《つか》んでその中に引きずり込んでしまいかねない。  実際、主は我輩に裾《すそ》を引っ張られてようやく我に返ったくらいだ。  その拍子《ひょうし》に、我輩の顔に水滴《すいてき》が当たり、それはひどく塩《しお》っ辛《から》かった。 「なあ……金はあるんだろう?」  主は一歩下がり、二歩下がり、無意識のうちにであろうか、我輩の頭を撫《な》でた。  暗闇《くらやみ》の中、狼《オオカミ》を前にした時の仕草である。  周りが見えなくとも、どれほど身の危険が迫《せま》っていようとも、我輩が側《そば》にいることさえわかれば恐《おそ》れることはない。  だが、目の前にしているのは、主にとって狼の牙《きば》よりも恐ろしい、敵意を剥《む》き出《だ》しにした人間である。アルスはゆらりと椅子《いす》から立ち上がり、なにか内に秘《ひ》めたものが形をとって爆発《ばくはつ》しそうな雰囲気《ふんいき》がある。我輩《わがはい》は身を沈《しず》め、いつでも飛びかかれるようにした。  一触即発《いっしょくそくはつ》の空気。  そんな中、乾《かわ》いた木の扉《とびら》を乱暴に叩《たた》く音がした。 「アルス! アルス・ヴィッド!」  そして、若い男のものであろう、アルスの名前を呼ぶ声がした。  とかく気勢を削《そ》がれては鳥ですら飛び立つことは難しい。  アルスは苦虫を噛《か》みつぶしたような顔でそっぽを向き、椅子に荒々《あらあら》しく座って舌打ちをした。  扉はなおも叩かれ、主《あるじ》はその音に急《せ》かされたように振《ふ》り返って扉に駆《か》け寄った。  我輩は、そんな時でも律儀《りちぎ》に頭を下げた主に対して、ため息をつかざるを得なかったのであるが。 「アルス! いないわけないだろう! 仕入れの代金の立替《たてかえ》分、耳を揃《そろ》えて——」  扉が勝手に開けられて、途端《と たん》に外からの怒鳴《どな》り声《ごえ》が一直線に耳を打つ。  ちょうど主が扉に手をかけようかかけないかといった頃合《ころあい》であり、主はびっくりして手を引っ込めた。 「おっと」  と、扉の向こうにいた主に気がつき、目を見開いた男の顔は、なかなかに愛嬌《あいきょう》があった。  ただ、主の次に我輩を一瞥《いちべつ》するや息を飲んで立ち尽《つ》くした。  ありがたくその機を利用させてもらうことにして、我輩は主の側《そば》からするりと歩み出て、建物の外に出た。  扉を開けたのは、主よりも人の頭で一つ分は高い男であり、そこそこに若い。我輩に足元をすり抜《ぬ》けられ、燃えた火でも放《ほう》り投げられたように後ずさっている。  我輩は外の道に出て悠然《ゆうぜん》と振り返り、一吼《ひとほ》えすると主もようやくやってきた。  男は主になにか声をかけようとしていたが、我輩が一睨《ひとにら》みすると首をすくめ、その怯《おび》えを誤魔化《ご ま か》すように建物の中に視線を向けた。何者であるかはわからないが、金属の嫌《いや》な匂《にお》いがしていたことだけは間違《ま ちが》いない。扉に手をかけて主をもう一度振り返り、男は建物の中に入るとすぐに扉を閉じてしまった。それ以降は声も物音もせず、我輩と主は通りでぽつんと立つ羽目になった。我輩が歩かなかったのは、主がこの一連の出来事をうまく飲み込むことができていないからであった。  突然《とつぜん》の事故や巡《めぐ》り合《あ》わせで理解不能な事態に直面しても、主が気丈《きじょう》に羊を導けたのはすがりつく羊飼いの杖《つえ》があったからである。それが、今はその杖は宿に置いてきてしまっている。  そうなると、主は魔女と呼ばれたほどの腕前《うでまえ》を持つ羊飼いではなく、ただの旅の娘《むすめ》である。  主がゆっくりと染《し》み出すようにべそをかき始めても、我輩は吼えて叱責《しっせき》することはしなかった。  代わりに、とぼとぼと歩き出した主の足に首をこすりつけ、我輩の頭に伸《の》ばしてくるその手を、しっかりと受け止めたのであった。 「……ねえ、エネク」  主《あるじ》の声を聞いたのは、日も暮れてからのことであった。 「私、最低だったね」  ベッドでの睡眠《すいみん》は、主の人生のうちに片手で数えられるくらいに数少ないであろう。  しかし、そのうちの一回は、文字どおりの泣《な》き寝入《ねい》りであった。声がかすれているので、寝ながらなお泣いていたのかもしれぬ。  そう思っていると、立ち上がった主はベッド脇《わき》で寝そべる我輩《わがはい》をまたぎ、水差しから水を飲んでいた。 「疫病《えきびょう》で、半分の人が死んだんだよね」  銅であろうか、錆《さ》びて黒ずんだ水差しはあちこちぶつけているようでぼこぼこであり、よく水が漏《も》れないと感心するほかない。  もっとも、我輩はあんな露骨《ろ こつ》な敵意を向けられても、なおアルスを悪者にしない主の人の好《よ》さに驚《おどろ》くばかりである。 「……」  しばらく無言で水差しを手にし、それから再びベッドに戻《もど》るかと思いきや、我輩の背を足の裏でぐりぐりと撫《な》で、ベッド脇に腰掛《こしか》けた。 「私は、商人さんにはなれないな」  商人とは、裏切り、謀《はか》り、奪《うば》い、が当たり前の連中である。いざとなれば羊の腹を掻《か》っ捌《さば》ける主とはまた違《ちが》う勇気を持つ。大体、主には人の不幸につけ込んで利益を得るようなことは土台無理なのである。  我輩が主の素足《す あし》に鼻をつけると、久しぶりに埃《ほこり》で汚《よご》れていない細い素足がびっくりしたように引っ込められた。 「たくさん死んだんだよね……本当に、自分のことしか考えてなかったな」  ぽさ、とベッドに横になり、直後の衣擦《きぬず》れの音からベッドの上で丸まっているのがわかった。  やれやれである。  まず自分を責めるその癖《くせ》がなければ、主の人生とやらはもう少し楽なものであったろう。  だが。 「ん……エネク?」  だからといって、その性格を責めることもできぬ。  主のその誠実さは、そんなところから来ているのであるから。 「大丈夫《だいじょうぶ》……大丈夫だから、んっ……や、くすぐったいってば、こら!」  上に下にと子犬のようにじゃれ合って、三度ほど攻守《こうしゅ》入れ替《か》わってからであろうか、主《あるじ》は我輩《わがはい》を抱《だ》きすくめて、我輩の首筋の毛に顔をうずめてきた。 「立ち止まったら駄目《だめ》。そうだよね?」  我輩、野を一人で歩く主の横顔ほど好きなものはない。  喉《のど》を震《ふる》わせて一際《ひときわ》太く吼《ほ》えると、もう一度苦しいほどに我輩を抱きすくめて、主は我輩を解き放った。 「司教様のところに行ってみようか」  若干《じゃっかん》泣き腫《は》らした目が痛々しかったが、主の笑顔《え がお》は本物であった。 「それに、司教様に告解すれば少しは気も晴れるだろうし」  主よ! 我輩では力不足であったのかと尻尾《しっぽ》を丸めるのにも気がつかず、主はてきぱきと用意して、ベッドから下りると我輩を見てこう言ったのである。 「ほら、いつまでも遊んで欲しそうな顔してないで!」  我輩は今この時ほど、言葉を持たぬ生き物であったことを神とやらに感謝したかったことはなかったのである! [#改ページ]  宿を出ると空は茜《あかね》色で、我輩らのこれまでの生活からいえばそろそろ寝《ね》る時間であった。  主も歩きながら小さく欠伸《あくび》をしていたのであるが、これはきっと泣き疲《つか》れて眠《ねむ》ってしまった名残《な ごり》であろう。我輩の視線に気がついた主は、欠伸を誤魔化《ご ま か》すようにそっぽを向いていたが。  町の通りは相変わらず閑散《かんさん》としており、夕日を浴びて物哀《ものがな》しさがいっそう増していた。主も夕暮れは好きではないはずで、実際、閑散とした通りを歩くのが主一人になってしまった時などは、我輩の首筋にずっと手を当てていた。  されど、我輩はそれを責めることはしない。我輩も夕暮れは嫌《きら》いなのである。夕暮れのなにが嫌《いや》かと尋《たず》ねられれば、我輩は真っ先にその影《かげ》の長さである、と答えることができる。小高い丘《おか》の上で、夕日に向かって立つ主の影のなんと長いことか。長く伸《の》びた影は容易に本体の大きさを見誤らせ、我輩らに無用の恐怖《きょうふ》をもたらしてくる。夕暮れの中では、無力な羊ですら恐《おそ》ろしい影を有するものなのだ。  この人気のない道に長く伸びるのが己《おのれ》の影だけである、となれば、いかな我輩であっても多少の不気味さは拭《ぬぐ》いきれない。挙句《あげく》、時折路地に気配を感じれば、そこにいるのは胡乱《う ろん》な目つきの犬なのである。主が教会の前にたどり着き、ようやく町の人間たちの顔を見つけた時にほっと安堵《あんど》のため息をついてしまった気持ちもわかるというものであった。 「司教様、元気かな」  我輩に問われても困るのであるが、昨晩の様子からすると無事であるか否《いな》かはそれこそ神のみぞ知る、ではなかろうか。  人の体は脆《もろ》い。  我輩《わがはい》は、主《あるじ》が小さく深呼吸をするのを見|逃《のが》さなかった。顔つきが引き締《し》まったのは、ジョゼッペがどれほどやつれていようとも動じない、という意志の現れであろう。 「あれ、貴女《あなた》は確か……」  と、教会に入るや否《いな》や、主は声をかけられていた。  開けっ放しの扉《とびら》の中では、丸々と肥えた女たちが集《つど》っており、何事かを囁《ささや》き合っている。  我輩の少ない知識からすれば、腕《うで》まくりと、その頭につけた白い布から、おそらくは教会にやってきた尊い怪我《けが》人二人を世話する役目の考たちであろう。  確かに、これほど頑丈《がんじょう》そうな者たちに世話をされれば、命の灯火《ともしび》を消しかねない弱気の感情もどこかに吹《ふ》き飛ぼうというものである。 「あの、司教様の具合はいかがかと思ってきたのですが……」 「ああ、なるほど。今は少し落ち着かれて眠ってるよ。ひどい怪我なのについさっきまでずっとお祈《いの》りを捧《ささ》げられていてねえ」  人も獣《けもの》も三人集まれば群れの長ができる。  この場でもっとも体格の良い女が喋《しゃべ》り、他《ほか》の者が追随《ついずい》してうなずく。 「やっぱり、お怪我はひどかったのでしょうか」 「そうだねえ。あたしらも叩《たた》き起こされてここに駆《か》けつけた時はそれほどでもないと思ったんだけど、なにぶんにもお年がお年だから……もっとも、司教様には神のご加護があるんだから、すぐに元気になるだろうさ」  体格に見合った豪快《ごうかい》な笑顔《え がお》は、苦しんで死んだ死人すら笑顔になって安らかに眠れそうなものであった。愛想笑いのへたな主も、すんなりと笑うことができていた。 「それで、もう一人の方……は?」  主が言葉をやや濁《にご》らせながら聞いたのは、そちらのほうがより深刻な怪我を負っているように見えたからだ。 「頭の怪我は大したことなかったよ。頭と鼻はやたらに血が出るからひどそうに見えるけどね。けど、どうにも目を覚まさなくてねえ。顔色は良いから、今にも目を覚ましそうなんだけど」  ちょっとした崖《がけ》や沢《さわ》から転落して、気絶した羊がそのまま目を覚ますことなく衰弱《すいじゃく》死する、なんていうことは珍《めずら》しいことではない。  女がやや気楽な調子で話すのに対して、主は重々しくうなずいた。 「お二人とも、お見舞《みま》いはできるでしょうか」 「え? ええ、そりゃあ、もう。司教様は本当にひっきりなしに聖務にかかりっきりだったんだけど、何度か貴女のこと聞いてたね。それと」  と、女は言葉を切って我輩のことを見た。 「この、黒い騎士《きし》さんのこともさ」  女たちが我輩《わがはい》を見てぎょっとしなかったのはそういうことであったか。  我輩は納得《なっとく》し、主《あるじ》はなぜか我輩が騎士と呼ばれて居心地《い ごこち》を悪そうにしていた。  主よ、我輩が褒《ほ》められて嬉《うれ》しくないのか! 「エネクが騎士だなんて……」 「いやいや。この町に聖なる蝋燭《ろうそく》の火がやってこれたのは、この黒い騎士さんの働きが大いにあったからだ、て言っててね。もちろん、その騎士を連れている若い天使のことも言ってたよ」 「天——あの、いえ、そんな……天使だなんて……」  耳まで赤くして、主はうつむいてしまった。精霊《せいれい》と呼ばれていることはあったが、それも怪《あや》しげな、という意味でだ。爾来《じらい》、褒められることに慣れていない。  我輩のほうが恥《は》ずかしくなってしまうくらいに主が恥じ入っていたので、我輩は一吼《ひとほ》えして、主の足に鼻をこすりつけた。 「はっはっは。ほら、騎士さんも謙遜《けんそん》する必要はない、て言ってるよ」 「……」  主は言葉にならないようであったが、うつむいたままこちらを見る顔は、まんざらでもないようであった。 「ま、司教様たちの寝顔《ね がお》だけでも見ていけばいいよ。さすがというか、お二人とも神々《こうごう》しい寝顔なんだから」  まるでわが子の自慢《じ まん》でもするかのように胸を張る女の気持ちもなんとなくわかる。二人はこの町に希望の光をともしに来たのであり、ひいてはこの町の誇《ほこ》りなのだ。主と我輩《わがはい》に良い対応をしてくれるのも、そんな光をこの町に連れてきたから以外ではない。  もちろん、働きには礼があってよいので、我輩らは胸を張って受け取るべきである。  だが、その主が羊飼いであると知ったらどうなるであろうか。  我輩は心の奥で、我輩と主の関係を聞かせないでおき給《たま》え、と教会にいる者らしく神に祈《いの》ったのであった。 「さ、こっちだよ」  我輩の祈りはそれとして、主と我輩は女に案内されて教会の奥に入っていった。  我輩らが羊飼いを営んでいた時も雇《やと》い主《ぬし》は教会であり、たびたび教会に入ることがあったのであるが、ここの教会はお世辞にも立派とはいえなかった。  きちんとした石造りではあるものの、手入れがされていないことが明白であり、壁龕《へきがん》に置かれた燭台《しょくだい》には長いこと火がともされていないことを示すように蜘蛛《クモ》の巣《す》が張り、石工が最後に壁《かべ》を触《さわ》ったのももう何年も前のことのように思われた。  部屋の木の扉《とびら》は蝶番《ちょうつがい》が錆《さ》びて腐《くさ》り落ちてしまったらしく、壁に立てかけてあり、代わりに布をたらしてあった。  信仰篤《しんこうあつ》くとも、司祭がいなければ入れ物は敬われなかったということであろう。 「こちらに」  つい先ほどまでとは打って変わった小さな声で女は言って、布を手でめくって主《あるじ》に入るようにと促《うなが》した。我輩《わがはい》は止められるかとも思ったが、女は笑顔《え がお》で通してくれた。  我輩、この女の評価は多少高くしてもよい気がする。 「……一日で、だいぶ」  その言葉のあとに続くのは、「痩《や》せてしまった」というものではなかろうか。  女のほうもうなずき、初めて心配そうにため息をついた。  暗闇《くらやみ》の中で見たから体型を見誤っていた、というわけではなさそうである。怪我《けが》を負えばそれだけで体は衰弱《すいじゃく》する。その上、司教、ジョゼッペは老齢《ろうれい》である。  主はその場で手を組んで、目を閉じると静かに祈《いの》り始めた。我輩は教会が主にした仕打ちを一生涯《いっしょうがい》忘れることはなかろうと思っているので、どうにも座りが悪かったのであるがひとまず腰《こし》を下ろすことにした。少なくとも、ジョゼッペその人に責任はない。それどころか、我輩のことを素直《す なお》に評価してくれたのであるから、その無事を願うことは我輩も否定しない。 「……神のご加護がありますように」  主は最後に小さく呟《つぶや》き、さらに小さく弱々しい寝息《ね いき》を立てているジョゼッペの毛布に軽く手を触《ふ》れ、後ろの女を振《ふ》り向いた。人は雄弁《ゆうべん》なる言葉を持つというのに、こういう時はそれ以上に視線によって会話をする。女はうなずき、主を気遣《き づか》うようにその細い肩《かた》に手をかけ、二人|揃《そろ》って部屋を出ていった。我輩も彼女らのあとについていこうと腰を上げ、ふと後ろを振り向いた。  気のせいであったか、ジョゼッペの視線を感じたような気がしたのである。  だが、その老体は相変わらずベッドの上で静かに眠《ねむ》りについていた。  我輩は日々星の下に寝起きをし、大地の息吹《いぶき》を肌《はだ》で感じる牧羊犬である。なんとなく、星と大地の運行くらいはわかるものである。我輩は、己《おのれ》に言葉が、そして人ほど豊かな表情がなくてよかったと思った。そうでなければ、主に隠《かく》しおおせたかどうかがわからない。  もっとも、その寝顔は安らかなものであるには違《ちが》いがないので、ジョゼッペの胸中もまたそうなのであろう。  悲しむべきことではない。  我輩は部屋から出て、主のあとを追いかけたのだった。  小鳥ですら二羽が隣《とな》り合えば喧《やかま》しい。  鳥よりもなお雄弁な口を有している人が集まれば、それは大変なことになるものである。  ジョゼッペと、そのお供の生き残りであるルドー・ドルホフとやらの見舞《みま》いをすませた主を、おめおめと帰す連中ではなかった。 「へえ、リュビンハイゲンからねえ……。ところで、それはどこにあるんだい?」 「私は聞いたことがあるよ。あれだね、確かあそこは夜になると神のご威光《い こう》で聖堂が光るんだよね」 「そうそう。それに、仕立てられる革《かわ》のほとんどが金のなめし石でなめされるって聞いたね」 「金で!? そりゃあ、さすがリュビンハイゲンだね。それで、どこにあるんだっけ?」  こんな具合で、主《あるじ》に質問しているのか、それとも自分たちの間だけで言葉をぐるぐる回しているのか判別できたものではない。  我輩《わがはい》は主の側《そば》に寝《ね》そべってのんびりと欠伸《あくび》をする。連中の口から出てくる言葉など、我輩から言わせれば羊のそれとなんら変わらないのである。 「偉大《い だい》なる神の都市リュビンハイゲン。その聖堂は天にも届く……なんて、ニコ司祭はおっしゃってたよねえ」 「言ってた言ってた。あまりにも聖堂が高すぎて、お祈《いの》りの最中に何度か天使様が窓の外を通りがかったのを見たって」 「実際のところどうなんだい?」  ようやく話が主に振《ふ》られ、我輩はちらりとそちらを見る。  主の顔は、愛想笑いではなく苦笑いだ。 「そういうことが……あったかもしれませんね」  確かに聖堂は見上げるばかりの高さであるが、そんなことがあり得るならば、さしずめ烏《カラス》も雀《スズメ》も天使の類《たぐい》になってしまう。  ただ、それを否定すればニコ司祭とやらを嘘《うそ》つき呼ばわりすることになってしまう。  こういう知恵《ちえ》の回し方は、主が実地で学んだことである。  教会の人間が嘘をつくなどと、まかり間違《ま ちが》っても口にしてはいけないことなのである。 「やっぱりねえ……ニコ司祭も亡《な》くなる前にもう一度リュビンハイゲンを見たいとおっしゃっててね」 「でもほら、ジョゼッペ様はリュビンハイゲンに何度も行ったことがあって、今度もそこを通ってこの町に来たんだし、なによりそこの教会で働いてたというノーラさんがジョゼッペ様をこの町に導いたんだ。これはもう、ニコ司祭の願いが神様に通じたとしか思えないね」  一人の女の発言に、全員が揃《そろ》って大きくうなずいた。  そして、もう何度目かわからない熱烈《ねつれつ》な握手《あくしゅ》を主に求め、「ありがとう」と繰《く》り返すのである。  そのたびに主は恐縮《きょうしゅく》するのであるが、それは感謝されることに慣れていないからか、それとも、知恵が働いてしまい、この神のおわすという教会の中で、「教会で働いていた」という些細《さ さい》な嘘をついてしまった気後《き おく》れからか。  粉挽《こなひ》き、羊飼い、皮剥《かわは》ぎ職人、それに首切り役人や徴税吏《ちょうぜいり》と呼ばれる輩《やから》ほど評判の悪い連中はいない。この場で真実を述べても、引きつった笑《え》みを貰《もら》うだけであり、誰《だれ》も良い気分にならない。  それに、主《あるじ》が教会の下で働いていたというのは全《すべ》てを語っていないだけで嘘《うそ》ではない。  彼女らがジョゼッペを本当にこの町に希望の火をともしに来た天の御使《み つか》いであると信じていることもまた、間違《ま ちが》いがない。また、そのジョゼッペの窮地《きゅうち》を救った主と我輩《わがはい》に対してはなみなみならぬものを抱《いだ》いているのであるから、ここはおとなしく感謝を受け取り胸を張ってもよいと思うのであるが……主には難しいのかもしれぬ。  我輩などは、この話の輪に加わりがてら、やや悪くなりかけではあったが豚《ブタ》の腸詰《ちょうづめ》をきっちりと頂戴《ちょうだい》した。感謝とは、言葉に物がついてこそ、形を得るのである。 「でも」  と、ひとしきり感謝をし終わると、女のうちの一人が言った。 「貴女《あなた》はそもそもなんでこの町に? 噂《うわさ》は聞いてなかったのかい?」  ようやく核心《かくしん》が出たか、とすら我輩は思うところなのではあったが、それは彼女たちとの興味の優先順位の違いかもしれぬ。  我輩らは無宿の民《たみ》である。よその土地や町がどうなっているかよりも、側《そば》に誰がいるかのほうが問題である。生涯《しょうがい》に亘《わた》り同じ場所に住む者たちにとっては、それが逆転するのであろう。 「いえ、噂は聞いていました」 「なのにこの町に? それは、やっぱりあれかい。神様のお告げから?」  話が変なところに飛び、他《ほか》の女たちの顔つきが変わる。  さすがの主も慌《あわ》てて否定した。否定しはしたが、そうすると目的を告げなくてはならなくなり、主の目が我輩に向けられる。思い出しているのは、服の仕立て職人の組合長のアルスのことであろう。ここに仕事を求めにやってきたと言ったら、袋叩《ふくろだた》きに遭《あ》うかもしれない。  つい今しがたまで、ややその雰囲気《ふんいき》に圧倒《あっとう》されながらも、楽しく会話できていたのである。  主がその雰囲気を壊《こわ》したくないと切に願うのも無理からぬこと。  されど、残念ながら我輩は主の力になれぬ。  尻尾《しっぽ》を丸めて、しゅんと頭をたれたところであった。 「お、いたいた」  女ばかりの声の中に、場違いな男の声がまじったのである。  その瞬間《しゅんかん》、場の雰囲気が塗《ぬ》り変わった。  まるで、狼《オオカミ》の足音に羊の群れが総毛《そうけ》立った時のようだ。  主はまずそのことに驚《おどろ》き、遅《おく》れて女たちの視線の先を向いて再び驚いた。  そこにいたのは昼間の組合での騒《さわ》ぎにちょうど訪《おとず》れた男であり、その男が、主のことを見ながら手を振《ふ》っていたからである。 「なにしに来たんだい、この悪魔《あくま》め!」  されど、一番びっくりしたのは、突然《とつぜん》飛び出したこの言葉であろう。  つい先ほどまで賑々《にぎにぎ》しくではあるが、のんびりと会話をしていた女たちである。  その豹変《ひょうへん》ぶりに主《あるじ》は首をすくめて、思わず我輩《わがはい》の首筋に手を当てていた。 「ここをどこだと思っているんだい! 神様のおわす教会だよ!」 「おいおい、そんな剣幕《けんまく》で怒鳴《どな》らないでくれよ。俺が教会に来たっていいだろう? 神は善人の下《もと》にではなく、罪人の下にこそ相応《ふさわ》しいのだから」  そう言って皮肉げに唇《くちびる》の片|側《がわ》だけをつり上げて笑う。  攻撃《こうげき》的でありながら、その矛先《ほこさき》を誰《だれ》に向けているのかわかりづらい表情である。  それがどこか我輩らに共通すると思っていると、女の一人が解答を口にしてくれた。 「黙《だま》りな! この高利貸しめ!」  男はその剥《む》き出しの敵意にも軽く肩《かた》をすくめただけだ。  むしろ、馬鹿《ばか》にするかのように両手を肩の高さまで上げて、掌《てのひら》を女たちに向ける。  高利貸し。  なるほど、我輩らの仲間である。 「わかったわかった。だけど、別に今日はあんたたちの薄《うす》い財布《さいふ》をひっくり返しに来たんじゃない」  その途端《と たん》、女たちの顔になんともいえぬ反応があったのだからお笑いである。  互《たが》いに視線を交《か》わし合い、「それならば……」と口の中でごにょごにょと言った。  我輩、犬にしてなお人の世を知る者である。  彼女らの心境は、手に取るようにわかった。 「あ、あの、それで、私になにか御用《ご よう》でしょうか」  ちょっとした沈黙《ちんもく》の隙間《すきま》に、主が言葉を滑《すべ》り込ませた。  女たちは身ぶりで「こんな奴《やつ》と話すんじゃない」と言ってはいるが、お人好《ひとよ》しの主は迷いつつも視線を男に向けた。  すると、男はたちまち花が咲いたような笑顔《え がお》になって、気軽な口調で話しかけてきた。 「なに、昼間はすごいところに出くわしちゃったしね。あのあと、アルスに事情を聞いて、こりゃあ放《ほう》っておけないと思ったんだよ」 「……じ、事情ってなんだい」  そう尋《たず》ねたのは、好奇心《こうきしん》で黙《だま》っていられない女の一人だ。  猫《ネコ》の前で麦《むぎ》の穂《ほ》を揺《ゆ》らすようなものである。  男はもう一度肩をすくめて、答えた。 「お前らよく聞けよ、この娘《むすめ》はこの町に仕事を探しに来たんだ」 「え!」  全員の視線が集まり、主《あるじ》の顔にさっと緊張《きんちょう》が走った。 「誰《だれ》も彼もが尻尾《しっぽ》を巻いて逃《に》げるようなこの町にな。服の仕立て職人になりたいとわざわざ来てくれたのを、アルスのやろう、怒鳴《どな》り散らして追《お》っ払《ぱら》ったんだ」  その後のわずかな沈黙《ちんもく》は、主にとって長い沈黙だったに違《ちが》いない。我輩《わがはい》は喉《のど》の奥で我慢《がまん》したのであるが、首筋を掴《つか》むその手の力は痛いほどであった。川にかかる朽《く》ちかけた橋の板に、一歩目の足を乗せた時のような緊張感、といえば余人にも通じるであろう。  町で主に視線が集まる時、そこにあったのは、怯《おび》えと、敵意、そして蔑《さげず》みであった。大地を突《つ》き、ひとたび鐘《かね》を嶋らせば羊が集まるその杖《つえ》は、町で使えば人を払《はら》う道具になる。  魔女《ま じょ》。異端《い たん》。羊飼い。  三つの単語はどれも同じ意味であり、主は常にうつむいていた。  我輩は主に首を絞《し》められて死ぬのではあるまいか。  そんなことを思った直後であった。 「クスコフにようこそ!」  女の一人が、あいている主の手を取って、目に涙《なみだ》を浮かべてこう言ったのである。主は訳がわからぬままにうなずいて、きょろきょろと視線を泳がせては女たちの抱擁《ほうよう》に目を白黒させていた。我輩もまた似たような目にあったのであるが、されるがままになっておいた。  ただ、そんな我輩らを見る男の目があまり笑っていないのは気になった。  高利貸しはとかく人に嫌《きら》われる職業だと知っている。  この歓迎《かんげい》ぶりが、妬《ねた》ましいのかもしれぬ。 「まあ、アルスの奴《やつ》はあれで頑固《がんこ》だからな。しばらくは無理かもしれないが、事情ってものがある。だから、この町から去らないで、しばらくとどまって欲しい。それを伝えたかったんだ」  女たちにもみくちゃにされる中、男はそう言って、また唇《くちびる》を片方だけつり上げた。 「それに、仕立て職人になる際は、是非《ぜひ》お声かけのほどを」  それは、慇懃《いんぎん》な礼を持って。  それまでは黙《だま》って男の声を聞いていた女たちが、一斉《いっせい》に主を抱《だ》き寄せてこう言った。 「恥《はじ》を知りな高利貸し! 駄目《だめ》よ、貴女《あなた》、こんな奴《やつ》に協力を求めては!」 「そうよ、私たちのように苦労することになるわ!」  男は散々な罵《ののし》りの言葉を、ずっと半笑いで聞いていた。  慣れているのであろう。 「俺の名はヨアン・エルドリッヒ。高利貸しと呼ばれているが、実際は両替《りょうがえ》商だ」 「あんた、この教会でそんな見え透《す》いた嘘《うそ》を——」 「俺は現在の貨幣《か へい》と未来の貨幣を両替する、両替商だ」  表情は変わっていないが、初めてその男、ヨアンの言葉に覇気《はき》が伴《ともな》った。  女たちは水を打ったように静まり返り、再びその視線に力が戻《もど》るのにはしばらく時間が要《い》った。 「用件はそれだけだ。それでは、失礼」  最後の笑《え》みは、商《あきな》いに身を投ずる者たちに共通するものであった。  部屋には嵐《あらし》が過ぎ去ったあとのような妙《みょう》な脱力《だつりょく》感があったが、ヨアンの足音が完全に聞こえなくなると、女たちも息を吹《ふ》き返してきた。 「ま、まあ、なんにせよ、町で働きたくて来てくれたのなら大|歓迎《かんげい》さ。クスコフはきっと蘇《よみがえ》るんだから」 「そうそう。人が来て賑《にぎ》やかになってくれればそれだけで助かるわ」  アルスとのやり取りとまったく対応が違《ちが》うからか、主《あるじ》はしばし戸惑《と まど》ってはいたが、やがて女たちの言葉が嘘《うそ》ではない本音のものだとわかると、徐々《じょじょ》にその顔に笑みが戻ってきた。  その顔は、草原で暮らす日々から、久しぶりに町の姿を目にした時のものと同じだった。  我輩《わがはい》が主の顔を見上げると、主もまた、笑顔でうなずいたのであった。  その夜、宿に帰ってからのことである。  主は我輩の背を素足《す あし》で撫《な》でながら、こう言ったのである。 「色々あった一日だね」  まことそのとおりである。  羊を飼うよりも、よほど刺激《し げき》に満ちていた。         三  翌朝、我輩らの朝食は賑《にぎ》やかだった。  部屋には病の嵐をくぐり抜《ぬ》けた勇敢《ゆうかん》な小さい騎士《きし》たちが集まって、主から神の説話を熱心に聞いていたからである。昨日の教会で主と話をした女の誰《だれ》かが、主のことを子守《こも》りにうってつけの人材だ、と判断したかどうかは定かではないが、部屋に朝食を運んできた女将《おかみ》の後ろに子供たちが隠《かく》れていたのである。  ただで部屋に泊《と》めてもらっている負い目からか、主は嫌《いや》な顔一つせず子供たちを部屋に招き入れ、少ない朝食を分け与《あた》えながら請《こ》われるままに旅の話や神の話をし始めた。  我輩は主の義理|堅《がた》さにやれやれと思いながら、小さい騎士たちの無礼な振《ふ》る舞《ま》いに声一つ荒《あら》げずおとなしくしていた。我ながら自分自身の懐《ふところ》の深さに感服するのであるが、やがて子供たちが我輩《わがはい》のことよりも主《あるじ》の話に耳を奪《うば》われ始めていることに気がついた。  主の膝《ひざ》の上には最も幼い子供がいて、いつの間にか小さな寝息《ね いき》を立てている。両|脇《わき》にはもう少し大きな子供がいて、主の服の裾《すそ》を掴《つか》みながら魅入《みい》られたように主のことを見上げている。  主の顔はいつになく優《やさ》しげで、むずがる幼子《おさなご》や話が理解できず泣きべそをかき始める子供をあやす時でさえ、楽しげであった。自らのことで精一杯《せいいっぱい》に見えることが多々ある主ではあったが、その実きちんと成長しているらしい。羊飼いの杖《つえ》を振《ふ》り回すよりも、その杖に振り回されることのほうが多かった頃《ころ》の主を知る我輩としては、感慨《かんがい》もひとしおである。  それに、やはり人である主は人の幼子に囲まれているほうが自然というもの。  もっとも、言葉の通じ具合では、主を取り囲む連中と我輩に大した差があるとは思えなかったのであるが。 「それで、めでたしめでたし」  主が話し終えると、途端《と たん》に、ほー……というようなため息に似た声が漏《も》れた。  誰《だれ》も彼もが、話に聞き入っていたらしい。  しかし、そこはそれ、へたをすると我輩などよりもよほど野蛮《や ばん》なる彼らである。うまいものを食えば腹がはちきれるまで食べようとする。食べても食べても腹の膨《ふく》れない楽しい話となればなおさらであり、もっともっととせがむ子らに、さすがの主も困惑《こんわく》気味であった。  我輩は一応主の身を守る騎士《きし》である。助けを入れるかと立ち上がったのであるが、そんなところに割り込んだのは、一つのしゃっくりであった。服やら髪《かみ》やらを引っ張られて困りきっていた主は、「?」とばかりに動きを止める。  我輩は、来るぞ、来るぞ、とばかりに後ずさりする。  それはむくむくと空に立ち上る真っ黒い雲。  放たれるのは、布を裂《さ》くような、雷《かみなり》のごときものである。 「っ……びぃぎゃああああああああああ」  その凄《すさ》まじい音量に、我輩思わずぐらりとしてしまう。火のついた、とはまさしくこのことのように泣き出した幼子に、主はただただ慌《あわ》てている。  羊の子であれば、生まれてすぐに立ち上がるから問題ない。  しかし、人の子はそうはいかない。  主は必死になだめようとするものの、そのあまりの強烈《きょうれつ》な泣き声に完全に及《およ》び腰《ごし》だ。  さて一体どうしたものか。  我輩がそんな心配をしたところであった。 「はは、お姉ちゃん、貸して貸して!」  つい先ほどまで、豚《ブタ》か鶏《ニワトリ》かと思うばかりに主の服だの髪だのを掴んでわがまま放題言っていた子供らである。からからと笑いながら主にそう言うや、ひょいと主の膝の上から幼子を取り上げてしまう。子供らの体も幼子の体も大きさなど大して変わらない。それがどうして、うまく抱《だ》きかかえると、けたけた笑いながらあやしているではないか。  その手際《て ぎわ》は実に手なれていて、見れば主《あるじ》も目をまん丸にして驚《おどろ》いていた。  幼子《おさなご》はやがて泣くのをやめ、むずがるように抱《かか》える子供の胸をまさぐっている。幼子を抱えた子供はくすぐったそうにけたけたと笑いながら、部屋から駆《か》け足で出ていった。残る子らも彼に続き、それはまるで鳥の群れのようだ。  鳥と違《ちが》うのは、部屋から出る間際、主のことを振《ふ》り向いて手を振っていたことだろう。  騒《さわ》がしくなったかと思えばあっという間に静まり返り、残されたのは妙《みょう》な倦怠《けんたい》感だけ。主など、しばし開け放たれたままの扉《とびら》を見つめ、呆然《ぼうぜん》としていた。  それがようやく我に返り、最初にしたことは、自分の胸に手を当てること。  我輩《わがはい》が人であれば、笑うところである。  なにか思うところがあったらしい主は、しばし自らの胸を見下ろしてから、我輩のことをちらりと見た。  にこ、という主の笑顔《え がお》は、大抵《たいてい》ろくなものではない。  椅子《いす》から立ち上がるや我輩の下《もと》に歩み寄ってきて、しゃがみ込むとこう言った。 「笑ったでしよ」  滅相《めっそう》もござらぬ。  顔を背《そむ》けたのであるが、主は容赦《ようしゃ》ない。  我輩はこてんと横倒《よこだお》しにされ、そのまま仰向《あおむ》けに腹を撫《な》でまわされた。  我輩、これでも誇《ほこ》り高き牧羊犬である。  しかし、羊を意のままに押さえ込めても、本能までもそうやすやすと押さえ込むことはできない。我輩はそのあとたっぷりと、誰《だれ》が主か改めてしっかりと叩《たた》き込まれてしまったのである。 「でも、この先どうしようか」  主がぽつりと言ったのは、針を借りて服を繕《つくろ》っている最中のことであった。 「おばさんたちには歓迎《かんげい》してもらったけど、ね」  主は歯で糸を切り、繕った場所を高く掲《かか》げている。穴がきちんと塞《ふさ》がったかの確認《かくにん》と、綺麗《き れい》に繕えたかの点検であろう。  主が少し動くたびに若干《じゃっかん》藁《わら》の詰《つ》め方が緩《ゆる》いベッドが歪《ゆが》み、ベッドに寝《ね》そべる我輩も揺《ゆ》れる。  欠伸《あくび》をすると、首の後ろを撫でられた。 「ずっとここに厄介《やっかい》になっているわけにもいかないし……町が落ち着くまで、なにかお仕事があればいいんだけど」  子守《こも》りなどうってつけではないか。  我輩はそう思ったのであるが、主も同じことを思っていたらしい。 「でも、子供を預かるだけでお金なんて貰《もら》えないよね……」  なにせ主《あるじ》では乳母《うば》になれないから、正しい判断であろう。牛であれ山羊《ヤギ》であれ、乳が出てこそ役に立つ。羊のように毛が生えるというわけでもなく、その上肉も取れないというのであれば、我が主の先行きは暗い。  やはり、我輩《わがはい》が側《そば》にいなければおぼつかないのである。 「エネク?」  そんなことを思っていたら、針を手にした主が笑いながらこちらに向かって首をかしげていた。身がすくむ思い、というのはこういうことである。  我輩、思わず尻尾《しっぽ》を丸めてしまい、主に頭を小突《こづ》かれた。 「ここなら仕立て職人になれると思ったんだけどな……」  主は手製の外套《がいとう》をもう一度高くに掲《かか》げ、胸元《むなもと》に抱《だ》き寄せてベッドに後ろ向きに倒《たお》れた。  それを見て、我輩はのそのそと顔を上げるや、主の腹の上に顔を置いた。主はちょっとびっくりしたようだが、ゆっくりと我輩の頭の上に左手を載《の》せてきた。  以前はよく、主があまりに空腹で眠《ねむ》れない時などに、我輩のこの顔を主の胃をつぶすように主の腹の上に載せられたものである。人というのは意外に単純らしく、そうすると幾分《いくぶん》空腹が紛《まぎ》れるというのである。  腹さえ満たされていれば世は事もなし。  主は辛《つら》いことがあると、よく笑ってそう言っていた。 「っ……〜……っ」  と、我輩の耳が妙《みょう》な音を捉《とら》えると、どうやら主の鼻歌らしかった。  リュビンハイゲンの職人街で聞いた、服の仕立て職人たちの職人歌だ。  男たちはわざと滑稽《こっけい》に、娘《むすめ》たちは殊更《ことさら》華《はな》やかに、通りにはみ出た作業台を前に、あるいは開かれた鎧戸《よろいど》の向こう側《がわ》で、仕立て作業と共に歌っていた。主の給金ではとても服の仕立てを人に任せることなどできなかったので、その歌は職人街を何度も通り過ぎてようやく旋律《せんりつ》だけ覚えられたもの。詳《くわ》しい歌詞もわからなければ、どうやって最後を締《し》めるのかもわからない。  時折、こんなふうにぼんやりする時に、主はやや音程の怪《あや》しげな鼻歌を歌う。  寝《ね》転がり、空を見ている時だけに歌うのは、涙《なみだ》がこぼれぬようにではあるまいか。  我輩、こう見えても詩の素養があるのでそんなことすら思ってしまう。  顔を上げて見ると、主は泣いてはいなかった。  ただ、その目がどこを見ているのかは容易にわかる。  楽しげだった職人街の様子であろう。  誰《だれ》も彼もが互《たが》いに知り合いらしく、厳しくも和《なご》やかに、慎《つつ》ましく正直に暮らしている者たちの姿を見る主の姿は、よその子が持つ玩具《おもちゃ》を羨《うらや》ましそうに見る子供のようで、我輩はあまり好きではない。  とはいっても、一時《いつとき》も気を抜《ぬ》くことのできない日々の連続であったのだ。たまには弱みを曝《さら》け出していても、我輩《わがはい》に責める権利はない。唯一《ゆいいつ》やめて欲しいと思うのは、上《うわ》の空《そら》で我輩の毛や皮を引っ張ることであろうか。挙句《あげく》、歌に興が乗ってくると、間合いを取るためにぽんぽん頭を叩《たた》き出す。  やがて我輩が即席《そくせき》の打楽器に成り果てた頃《ころ》、扉《とびら》の向こうに人の気配がした。  我輩がふいと体を起こすと、興を削《そ》がれた主《あるじ》がむっと我輩を睨《にら》む。  我輩は、ノックに慌《あわ》てた主の顔を見て、ひとまず溜飲《りゅういん》を下げておく。 「あら、ごめんよ、寝《ね》てたかな」  朝、食事と共に子供らを連れてきた女将《おかみ》である。 「あ、いえ、えっと、あ、針ありがとうございました」  寝《ね》転がっていたせいで変な癖《くせ》のついた髪《かみ》を必死で手櫛《て ぐし》で梳《す》きながら、慌てて針を返している。  我輩が思うに、女将が笑っているのは主の寝癖ではなく調子っぱずれの歌のせいだったと思うのではあるが、騎士《きし》たる者、そのような指摘《し てき》はしないのが礼儀《れいぎ》である。 「さっきお使いが来てね、司教様がお話ししたいって」  主は髪を梳く手を止めて、我輩のことをちらりと見る。 「司教様が?」 「午前中の聖務が一段落ついたみたいだからね。昨日は話せなかったんだろう?」  主はうなずき、慌てて繕《つくろ》ったばかりの外套《がいとう》を羽織る。 「あ、司教様に会ったら、うちの商売|繁盛《はんじょう》を神に祈《いの》って欲しい、て言っておいておくれよ。混んでてなかなかお願いできないんだよね」  見た目に違《たが》わぬ図々《ずうずう》しさ。  されど、嫌味《いやみ》を感じさせないのが、よいところである。  手早く準備して、そののち我輩らは宿をあとにした。  昨日の今日ではあるが、主はすっかり町の中でもびくつかずに歩くことができていた。 「お話ってなんだろうね。あ、それより、お礼を言わないといけないよね。天使って……ふふ」  顎《あご》に指を当て、独《ひと》り言《ごと》を言いながら考える様は一人で暮らす連中に多い癖ではあったが、その顔はだらしないくらいにほころんでいる。昨日、教会で天使と言われたことがよほど嬉《うれ》しかったのかもしれない。  それに、主が珍《めずら》しく前向きな空想に耽《ふけ》っているのは、町の様子も影響《えんきょう》しているかもしれない。  昨日はあまりにも寂《さび》しいと思われた町も、後《うし》ろ脚《あし》で砂をかけてきたリュビンハイゲンと比べていたせいでそう見えたのかもしれない。少し時間が経《た》ってみると、そんな町でも人々は生活し、それなりに活気というものがあることがわかる。  布屑《ぬのくず》を集める者に、桶《おけ》や木箱の修理を呼びかける者。鋳掛《い かけ》屋や、靴《くつ》直しの前にも人がいて修理を待っている。新しいものを作る余裕《よ ゆう》は相変わらずなさそうではあるが、綻《ほころ》びたものを繕《つくろ》える程度に回復していることがよくわかった。主《あるじ》の視線も町の陰惨《いんさん》な部分ではなく、若芽のような力強い部分に向いているらしい。楽しげに歩き、速度はいつもより速い。  後ろ手を組んでいる散歩姿など、我輩《わがはい》、記憶《き おく》にあるのは主がリュビンハイゲンで町娘《まちむすめ》たちが楽しそうにそうやっているのを見て、路地の暗がりでその真似《まね》をしていた時以来である。  誰《だれ》の目を揮《はばか》るでもなく、ぎこちなくではあるが、人の世の楽しみを謳歌《おうか》している。  よいことである、と我輩は思った。  なので、その姿を視認《し にん》した時、我輩はため息まじりに、喉《のど》の奥を鳴らしたのである。 「あ」  森の木陰《こ かげ》に潜《ひそ》む狼《オオカミ》を、丘向こうから察知する主である。程《ほど》なく気がついて、そんなふうに小さく声を上げた。  視線の先には、扉《とびら》を肩《かた》で押さえたまま、軒先《のきさき》で立派な恰幅《かっぷく》のご婦人となにかを話している若い男がいた。確か、名をヨアンといった、高利貸しのあの若者である。 「どうしよっか」  主が我輩を振《ふ》り向いて、尋《たず》ねた直後であった。 「ん、おーい!」  と、声をかけられた。  ヨアンに恨《うら》みはないものの、町で忌《い》み嫌《きら》われている職であることはよくわかっている。  実際、ヨアンが主を認めて声を上げたせいで、主もご婦人から胡散臭《う さんくさ》げな視線を向けられてしまっている。  ただ、その視線に気がついたヨアンが何事かをご婦人に囁《ささや》くと、たちまちのうちに驚《おどろ》きの表情になり、両手を組んでこちらに向かって祈《いの》りを捧《ささ》げてきた。  すると、ヨアンはまるで自分の手柄《て がら》であるとばかりに、胸を張ってこちらを見ている。  我輩が主を見上げると、主は疲《つか》れたような、苦笑いであった。 「やあ、いいところで会った。これも神のお導き」  ヨアンは手の中で小銭《こ ぜに》をちゃらちゃらいわせながら、こちらに歩み寄ってくる。  そして、上着の下に小銭をしまってから、その手で首からぶら下がる教会の紋章《もんしょう》を取って、軽く口づけする。  主が対応に困るほどの気障《きざ》な振《ふ》る舞《ま》いであるが、それがヨアンなりの冗談《じょうだん》であることはなんとなくわかった。この男、儲《もう》けのためになら教会を売る類《たぐい》の人間であるはずだ。 「こ、こんにちは」 「こんにちは。そちらの騎士《きし》さんもな」  我輩は敵意を込めた視線だけを向けてやる。  ヨアンは若干《じゃっかん》怯《ひる》みつつ、「ま、歩きながら」と主を促《うなが》して、さりげなく我輩と反対|側《がわ》に立つ。 「ノーラさんは」  ふとヨアンがそう切り出したので、主《あるじ》はびくりと肩《かた》をすくませている。  一体いつ名乗っただろうか、と驚《おどろ》いたのだろう。  ヨアンは両手を広げておどけた顔をすると、柔《やわ》らかく言った。 「おっと失礼。なにせ、ちびどものお守りを任せたら全員笑顔で帰ってきた、なんて噂が広まっているものだからね」  狭《せま》い町である。  我輩《わがはい》は道端《みちばた》に落ちていた布の切《き》れ端《はし》の匂《にお》いを嗅《か》いでから、顔を上げる。 「ノーラさんはどこかの町でそういう仕事を?」  にこにこと人当たりのよい笑顔で尋《たず》ねてくる。  身なりはきちんと手入れがされているし、物腰《ものごし》は柔らかだ。きっと、平時であればなんのかんのと娘《むすめ》たちが放《ほう》っておかない男であろう。  されど、主は蝶《チョウ》よ花よと暮らしてきた身ではない。  ヨアンの言葉の裏に、なにかしらの匂いを嗅ぎ取って、軽く顎《あご》を引いた。 「冗談《じょうだん》だ。意地悪するつもりはないよ。だが、この町は俺の縄張《なわば》りだからね。どういう奴《やつ》か確かめたかった」  ヨアンは主の手をすっと取り、軽く品定めをするように眺《なが》めてから、ゆっくりと離《はな》す。  我輩、いつこの若造の足を噛《か》み砕《くだ》こうかと歯をぎちぎちといわせていたのであるが、ふっと我輩の頭に主の手が乗っかった。  待て、の合図である。 「君、羊飼いだろう?」  衣擦《きぬず》れのような音がしたのは、もしかしたら主が心を閉ざした音かもしれなかった。我輩が見上げると、草原に立つ石像のような無表情で、ヨアンのことを見つめ返している。信用が置け、頼《たよ》ることができ、仕《つか》え甲斐《がい》のある顔だ。  しかし、それは獣《けもの》以外とは相容《あいい》れぬものであり、ヨアンもその雰囲気《ふんいき》を存分に嗅ぎ取ったらしい。にやりと口元に嫌《いや》らしい笑みを浮かべてから、すっと主より視線を外す。それから太平楽《たいへいらく》に頭の後ろで手を組んで、わざとらしく足を振《ふ》り上げ、歩き出す。 「そうじゃないかと思ったが、確信が持てなくてね」  主は返事をしない。  それでも、ヨアンは気にすることなく、言葉を続けた。 「この町の連中は、羊は農夫が育てるものと思ってるからね。敢《あ》えて自分から言い出さなければ、ばれることもないと思うよ」  軽い口調で話すヨアンだが、主の視線は油断ない。  ただ、その直後につながった言葉には、我輩もろとも虚《きょ》を突《つ》かれた。 「まあ、それなら安心だ」 「……え?」  主《あるじ》が眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せながら尋《たず》ねる。  暖かい日差しに頬《ほお》を撫《な》でられて心地《ここち》よさそうに目を閉じている高利貸しは、なんのことはないように答えた。 「司教様に呼ばれてるだろう?」 「……はい」 「行けばわかる。俺はお呼びではないが、代わりに呼ばれる奴《やつ》がどれほどの者か知っておきたかった、というところかな」  相変わらず要領を得ないが、からかっているふうでもない。  それどころか、ヨアンは主を横目に見て、思いのほか真剣《しんけん》な口調で一言|添《そ》えた。 「世間知らずではなさそうだし、そういう意味では強そうな娘《むすめ》で安心した。まあ」  と、主のことを上から下までなめるように見て、くすりと笑う。 「線は細すぎるかな。もう少し食べたほうがいいと思う」  主はとっさに自分の胸を手で隠《かく》そうとして、自ら気にしている部分を相手に悟《さと》らせてしまった。顔を真っ赤にしてうつむいて、ヨアンはそれを見てからからと笑っている。  主に頭を押さえられおとなしくしていた我輩《わがはい》であるが、今、その手はない。  我輩の戒《いまし》めを自ら解き放ってしまった愚《おろ》か者《もの》に向け、我輩は存分に牙《きば》を剥《む》き、その足に噛《か》みついたのだった。  主が教会の扉《とびら》をくぐると、出迎《で むか》えてくれた昨日のご婦人はやや怪訝《け げん》な顔をした。  主はうつむき加減にしているし、軽く汗《あせ》すらかいていたからである。  それでも、単に慌《あわ》てて来たのだろう、とでも思ったのか、特になにも言わずに主を奥に通してくれた。  なお、あの若造は我輩に噛みつかれ、この世の終わりとばかりに大声を上げて道に倒《たお》れ込んでいた。我輩、怪我《けが》をさせてよいかどうかぐらいの分別はあるので、皮膚《ひふ》が裂《さ》けないように加減する代わりに、存分に唸《うな》り声《ごえ》で脅《おど》しまくり、最後に裾《すそ》の部分を食いちぎってやった。ヨアンはしばらくは自分の足が大変なことになったと喚《わめ》いていたが、やがて怪我がないとわかると、狐《キツネ》につままれたような顔をしていたのが傑作《けっさく》であった。  それゆえ我輩はそれなりに胸のすく思いであったのだが、主はそうではなかったらしい。  教会の奥に通される間、前を行くご婦人の胸と己《おのれ》のそれとの違《ちが》いに、これまで一度も我輩に見せたことがないほど、しゅんとうなだれていた。  ただ、そんな情けない有様《ありさま》も、聖堂部分に至るまでであった。  みすぼらしさが隠《かく》しきれない教会の中、特に際立《きわだ》つ蝶番《ちょうつがい》の腐《くさ》った扉《とびら》の代わりに布が掛《か》かっている部屋だった。  先導する女が布を手でどけ、主《あるじ》を中にいざなった。  その直後に集まった視線に、我輩《わがはい》の体も総毛《そうけ》立つ。 「お連れしたよ」  主を先導していた女が言った。  その場に居合わせた者たちの年齢や容姿に共通|項《こう》は見当たらない。でっぷり肥えた男もいれば、若い女もいるし、老《お》い先《さき》短い老人もいる。唯一《ゆいいつ》全員から感じられるものがあるとすれば、それは責任感であり、人の世では常に権力に付随《ふ ずい》するものだ。どうやら、楽しいご歓談《かんだん》のために主を呼んだわけではないらしい。  主が宿に立てかけたままの羊飼いの杖《つえ》のことを思い出したのかどうか、その手が小刻みに震《ふる》え出し、水の中で空気を求めるように我輩を探し、掴《つか》んだ。  主に向かって、品定めをするような視線を向けてくる面々の向こう。  昨日、見舞《みま》いに来たベッドに眠《ねむ》るジョゼッペの横には、見知った人物がいた。  胡乱《う ろん》げな、世の全《すべ》てを恨《うら》んでいるような鈍《にぶ》い目つきに、引きつったように片方が軽くつり上がっている唇《くちびる》の色は悪い。その目はベッドの上に眠る人物を見下ろし、その手はジョゼッペの体の上に安置してある聖典の上に、ジョゼッペの手と共に重ねられている。  ゆるり、という池の中で魚が泳ぐような音を感じさせる動きで、アルスは主を見た。  そして、唇が億劫《おっくう》そうに動き、遅《おく》れて言葉がこぼれ出す。 「神の僕《しもべ》、ノーラ・アレント、ね」  突然《とつぜん》なにを言い出すのか。  しかし、それも続いた言葉に比べれば軽いものであった。 「ジョゼッペ・オーゼンシュタインの名において、汝《なんじ》をクスコフ教会の助司祭に任命する」  訳がわからない我輩と主をよそに、アルスはそんな言葉を、口にしたのであった。  それが冗談《じょうだん》ではない、と我輩が気がついたのは、その場にいた考たちが誰《だれ》一人として笑わなかったからである。  我輩ですらそんな有様《ありさま》であったのだから、主が我に返ったのは、アルスに声をかけられてからだった。 「冗談ではないよ」  冷たく事実だけを伝える言葉に、主の体がすくむ。  一体なにがあったのか。  こんな場所に様々な分野の人々が、それも一様に険しい顔つきの者たちが集まっているとなれば、たとえ主《あるじ》の頭が短絡《たんらく》的でなかったとしても、「その」ことを思いついたであろう。  ベッドに静かに横たわるジョゼッペの姿は、ひどく枯《か》れた印象を受ける。  しかし、我輩《わがはい》が主を見上げると、別の一人が察したように口を開いた。 「司教様は眠《ねむ》っておられるだけです。もっとも、予断を許さない状況《じょうきょう》ではありますが……。アルス、頼《たの》んだよ」  男はそう言うと、面々に視線を配り、彼らは揃《そろ》ってしずしずと部屋から出ていった。  残されたのは、アルスと主、それに当のジョゼッペである。  ジョゼッペの顔色は紙のようであり、表情はあまりよろしくなく、頬《ほお》も一段とこけていた。  つい今しがたまで気力の限りに喋《しゃべ》っていたが、ついに精根尽《つ》き果て眠ってしまったというふうだった。主が思わずといった様子でジョゼッペの側《そば》に寄ろうとして、そこにアルスの咳払《せきばら》いが割り込む。 「司教様からの用件は、私が受け取ってる」  有無《うむ》を言わせぬ口調であった。  それがなにかはわからないが、少なからずジョゼッペのことが関係しているらしい。  アルスはしかめっ面《つら》をジョゼッペに向け、大袈裟《おおげ さ 》にため息をついた。 「とりあえず、座って」  部屋の隅《すみ》に寄せられていた椅子《いす》を示して、アルスは言った。  主はおとなしく従い、借りてきた猫《ネコ》のようにちょこんと浅く腰掛《こしか》ける。  我輩もその足元に腰を下ろすと、仕立て職人の組合長は、立ったまま両|腕《うで》を組んで端的《たんてき》に言った。 「あんたがこの町で職人になれる道はない、と思ってくれていい」  突然《とつぜん》の宣告に、主は驚《おどろ》く暇《ひま》もなかったのではなかろうか。 「あ、あの……」  と、驚きを通り越《こ》して困惑《こんわく》しているが、アルスはしかめっ面を崩《くず》さない。  なにがそんなに気に食わないのか、と思って、我輩はようやく気がついた。  心苦しいのかもしれない。 「第一の理由として、服を仕立てる材料がない。服を仕立てて欲しがる客がいない。町が復興したらしたで、よその町に避難《ひ なん》した職人たちが戻《もど》ってくるのは目に見えてる。その時によそ者が自分の椅子に座っていたらどう思うか」  まくし立てるように言うのは、そうしないと言葉に詰《つ》まりそうだからにしか思えなかった。  どんな職業であれ、自分と同じ職業につきたいと憧《あこが》れる者を本気で邪険《じゃけん》にする者などいないだろう。  主もそれに気がついたのかどうか、怒《おこ》りも嘆《なげ》きもせず、ただ単純に、反論しようのないアルスの言葉に、落胆《らくたん》しただけだった。 「そう、ですか……」  呟《つぶや》くように言って、ふと、顔を上げた。 「わかりました」  主《あるじ》はこういう時の笑顔《え がお》のほうがよほど自然にできる。  諦《あきら》める時の笑顔ばかりうまいというのはおよそ健全なことではないが、だからこそ、負い目のあるらしいアルスには効果的だったようだ。  まるで自分の醜《みにく》い姿を鏡で見せられた魔女《ま じょ》のように怯《ひる》み、アルスは床《ゆか》を見て、歯を食いしばった。  先日の印象が強すぎるのであるが、あれは本当に間が悪かったのかもしれぬ。  今のアルスを見る限り、この娘《むすめ》は単に主以上にロベたな娘にしか見えなかった。 「……そ、それで、その上で話がある」 「え?」 「そこの司教様につい今しがた任された。あんたに頼《たの》み事《ごと》があるんだよ」  普段《ふ だん》は無口で真面目《まじめ》な、頑固《がんこ》の代名詞といわれるような腕《うで》のよい職人なのだろう。  アルスはうつむきがちのまま、主を少し睨《にら》み上げるように言った。 「助司祭に任命する。司教様の名において」  先ほどの言葉だ。  二度目ともなれば幾分《いくぶん》冷静になって受け止められるが、やはり我輩《わがはい》にはなんのことなのかわからない。それは主も同様らしく、慌《あわ》てることこそしなかったが、物問いたげな目をアルスに向けていた。 「町が、やばいんだよ」  目をそらしたアルスは吐《は》き捨《す》てるように言って横を向き、目だけを主に戻《もど》して続けた。 「レズールって町が、この町を乗っ取ろうとしてる」 「……乗っ取り?」 「あんた……その、私の仕事場に来た時に、見た、だろう? この町にはもうろくな材料が残ってない。金になりそうな完成品は全部、命知らずの商人たちに安く売っちまった。そのくせ、この町になにかを売りに来る連中なんていないからね、麦だの肉だのの値段は高騰《こうとう》して、みなすっからかん。レズールは、そこにつけ込んできた」  手負いの獣《けもの》はたとえ熊《クマ》であろうとも、他《ほか》の動物の餌食《えじき》になるのを避《さ》けられない。  命の限り戦い敗れれば、あとは胃袋《いぶくろ》に収まるだけ。  そんな法則は、なにも森や草原だけのものではないらしい。 「町はこんな状況《じょうきょう》だけど、材料さえあれば働ける職人や、売りに行ける商人はいる。でも、先立つものがなければどうしようもない。レズールは、そんな私たちに、お金を貸そう、て言ってきたんだ」  一見|助《たす》け舟《ぶね》に見えて、それが地獄《じ ごく》へと続く泥舟《どろぶね》である、などということはよくあること。  金貸しヨアンがなぜあそこまで嫌《きら》われているか考えてみればいい。 「でも、それでどうして私が……助司祭、に?」  主《あるじ》は上目遣《うわめ づか》いに尋《たず》ねた。 「だって、そんなの、断らないとなんないだろ。絶対に。受けたら、この町が乗っ取られてしまう。借りた金は返さなきゃならない。利子をたっぷりとつけて」  主がアルスの仕事場を訪《おとず》れた時の訪問者は、他《ほか》ならぬヨアンであった。  すでに町の多くの人間が借金まみれなのかもしれない。肥え太るのは、傷ついた者たちを食い物にするヨアン一人と犬たちだけ。そういう構図なのであろうか。  ただ、主の質問の答えにはなっていない。  アルス自身気がついたのか、気まずそうに鼻を掻《か》いてから、深呼吸をして、言葉を続けた。 「レズールとの交渉《こうしょう》に、当たって欲しいんだとさ。助司祭として」  この娘《むすめ》、まことに要領を得ない。本当にロベたなのであろう。  もっとも、主は主で胸と共に容量の少ないところがあるので、このくらいの小出しの仕方がちょうどよかったのかもしれないが。 「交渉に……」 「そう。まともに商人とかが出ていくと、多分負ける。どこかの町がどこかの町に物を売らないとか言うと、絶対に揉《も》める。まずいんだ。へたをすると戦争になる。でも、教会が出てきて、あんたらみたいな不信心者とは取引できない、となれば、話は別。教会と戦争したがる連中はいないからね。回避《かいひ》できるかもしれない」  なるほど、と我輩《わがはい》は得心して、ベッドの上で眠《ねむ》るジョゼッペに視線を向けた。  どうして主が助司祭などに任命されて、しかもその話をアルスがしているのかということがようやくわかった。 「それで、あんたを助司祭に、っていうのは……司教様がこんなだからさ。誰《だれ》かが代わりにやらなきゃなんない。町の人間でいいじゃないか、てもちろん言ったよ。でも、司教様は町の状況《じょうきょう》を私たちよりよく知ってた」  アルスは言って、ため息をついた。  疲《つか》れきったようなそれは、決して我輩の勘違《かんちが》いではなく、実際に疲れきっているのだろう。  つい先ほど、部屋の中からぞろぞろと出ていった、様々な顔ぶれの者たちのことを思い出して思う。  あれはきっと、アルス同様この町で各々《おのおの》要職につく者たちなのだろう。  そして、やはりアルスと同じく、本来その場にいるべきではない者たちもいるのだろう。  とうに引退しているような老人や、若すぎるアルスのような娘がいい例だ。  要するに、町の人間には、もはや代わりがいないのだ。 「それに、レズールだって、私たちが教会を盾《たて》にしてくるだろう、ということくらいはわかってるはずだから、殊更《ことさら》町の人間は使えないんだ。お前は教会の人間じゃないだろう、なんて言われたら、目も当てられない。ああ、本当に忌々《いまいま》しいのはレズールの連中だ。あんたも噂《うわさ》くらい聞いたことないかい? 野蛮《や ばん》で、趣味《しゅみ》の悪い鏃《やじり》の首飾《くびかざ》りをつけた、異教徒だっ」  吐《は》き捨てるように言ったアルスの言葉に、我輩、頭を殴《なぐ》られるような衝撃《しょうげき》であった。  その瞬間《しゅんかん》、一体どれほどの記憶《き おく》が一つの線で結ばれたことであろうか。  疫病《えきびょう》が猛威《もうい》を振《ふ》るい、そのせいで人の通らなくなった街道《かいどう》沿いで、どういうわけか旅人を狙《ねら》っていた異教徒の盗賊《とうぞく》と、それに襲《おそ》われた勇敢《ゆうかん》なる司教の一行。  そして、我々の到着《とうちゃく》は異常ともいえるほどに歓迎《かんげい》された。  町はレズールから持ちかけられた取引を必死に回避《かいひ》すべく、これまで八方手を尽《つ》くしていたのであろう。それが、ついにジョゼッペから色よき返事を貰《もら》ったものの、彼は危《あや》うく命を落とすところであった。  この手の謀《はかりごと》には鈍《にぶ》い主《あるじ》であっても、気がついたらしい。  目を見開いて、何事かを口走ろうとして、はっとしてジョゼッペを見た。  アルスの態度からして、ジョゼッペは誰《だれ》に襲われたかを喋《しゃべ》っていないのだ。  それがどういう配慮《はいりょ》なのか、というのは、少し考えてみればすぐにわかる。  異教徒たちが、自分たちの利益のためにジョゼッペを襲ったということがこの町の人間に知れ渡《わた》れば、傷つき疲弊《ひへい》した者たちであっても、武器を手に取って立ち上がってしまうかもしれない。追い詰《つ》められた鼠《ネズミ》こそ、猫《ネコ》に立ち向かってしまうからだ。  そして、戦争になれば、まず間違いなくこの町は負ける。  ジョゼッペは、そのことを考えて、黙《だま》っているのだろう。 「それで、旅人であって、なおかつ、教会の人間として立派にやれそうな人物、ということで、あんたを選んだらしいんだ」  アルスは言って、ちらりと主を盗《ぬす》み見るように見た。 「そう、だったのですか……」  教会都市などと呼ばれつつ、そこで行われていることといったらどこの町よりも生臭《なまぐさ》いことばかりだったリュビンハイゲンから、ようやくのことで逃《に》げ出せた。そう思っていたら、どうやらどこの町でも似たようなことばかりらしい。  主はそんな現実に落胆《らくたん》しつつ、ふと、なにかに気がついたように顔を上げた。  我輩《わがはい》、できることなら、人がするように、手で顔を覆《おお》いたかった。 「あ、あの」 「ん?」 「お話はわかりました。ですが……あの、それで……どうして、そのお話をする前に、私に職人になるのは、諦《あきら》めろ、と?」  主《あるじ》は主でやはり仕立て職人に未練があるのだろう。  珍《めずら》しく食い下がるような質問をしたが、我輩《わがはい》がそれに顔を覆《おお》いたくなるのと同様、アルスもまた心苦しいものがあるのだ。嫌《いや》なことを、要領を得ぬまま早口にまくし立てたのは、多分、アルスがそれほど性格の悪い娘《むすめ》ではないからだ。  不器用なだけで、本当は優《やさ》しいのであろう。 「……これがうちの町の助司祭だ、て言って、交渉《こうしょう》するだろ」 「はい」 「そのあとで……何食わぬ顔で仕立て場で仕事してたら……」  わからないか? と、アルスが気まずそうな上目遣《うわめ づか》いで主を見る。  こういったことには羊のように阿呆《あ ほう》な主である。  しばしぼんやりしていたが、やがて線がつながったらしい。 「あ」  主はようやく、短く声を上げた。 「な? おかしいだろう? だから」  だから、ジョゼッペはアルスにこのことを伝えさせたのだろう。  主は服の仕立て職人になりたくて、危険も顧《かえり》みずにこのクスコフにやってきた。  ジョゼッペとしても、心苦しかったに違《ちが》いない。  しかし、数多《あまた》の羊を守るために、時として一|匹《ぴき》の幼い羊を見殺しにしなければならないのと同様、そういった決断を下さなくてはならない状況《じょうきょう》が、今なのだろう。  せめてそのことを、職人の組合長から伝えてもらえれば。  二人の娘《むすめ》の間に、重い沈黙《ちんもく》が横たわる。  誰《だれ》が悪いわけではない。  巡《めぐ》り合《あ》わせが、あまりにも悪かったのだ。 「あ、あのさ」  と、先に沈黙を破ったのは、アルスのほうだった。 「昨日の、こと、悪かったよ」  唐突《とうとつ》に言われ、主も面食らったに違いない。  意味なく手をばたばたさせたりして、ようやくのことで返事をする。 「あ、いえ、えっと……こちらこそ、自分のことしか考えていなくて……」  主は申し訳なさそうにうつむきがちに言うが、アルスはそんな主を見て、やはり心が痛むようであった。 「ヨアンにも信じられないくらい怒《おこ》られたけどさ……本当言うとさ、自分を責められたような気がしたんだ」 「え?」 「いや、なんというか……うまく言えないんだけど、あんたって、命|懸《が》けでこの町に来てくれたわけじゃないか。職人になりたくて。それが、眩《まぶ》しかったんだ。自分の目的のために命を懸けてこの町に来て、それでその時、私、ようやく気がついてさ。自分はなにしてたんだって。疫病《えきびょう》で皆《みな》が死んでいく中、ただ泣き喚《わめ》くだけでさ……」  たどたどしくはあるが、それゆえに心の底からの言葉であろうことがよくわかる。  こうしてみると、アルスも本当に心|優《やさ》しい普通《ふ つう》の娘《むすめ》である。  目つきが胡乱《う ろん》なのは、心労がたたっているだけなのかもしれない。 「だから、私も、その、このままじゃいけないって」  アルスは大きく息を吸って、顔を上げると背筋を伸《の》ばした。  それからまっすぐに主《あるじ》を見た顔は、職人の組合長という肩書《かたが》きに相応《ふさわ》しい、凜《りん》としたものであった。 「だから、改めてお願いしたい。あんたの夢をつぶすことは重々承知している。助司祭として、ずっとじゃない。今回だけ、この町の危機を救ってくれないか」  アルスは右手を自分の胸に当て、両足を綺麗《き れい》に揃《そろ》える。  そして、主のほうに頭を下げた。  リュビンハイゲンで、町商人たちが教会の人間に媚《こ》びへつらう時に見た姿勢だ。  本来は、こういう時に使うものだったのかと、我輩《わがはい》がそんな変な感動を受けてしまうくらい、敬意に満ちた姿勢であった。  それに対して主は?  我輩は若干《じゃっかん》の心配を持ってすぐ側《そば》の主を見上げたのであるが、その直後、反省をすることになった。主は立派な人物だったのである。  手が届くかと思われていた夢が今まさに手の中からするりとこぼれ落ちながら、その背筋はしっかりと伸《の》び、しかして表情は柔《やわ》らかな笑顔《え がお》であった。 「これも、神のお導きだと思っています」 「っじ、じゃあ」 「はい。私でお力になれるのでしたら」  この世の中、お人好《ひとよ》しであっても損をするばかりである。  しかし、我輩としても己《おのれ》の利に聡《さと》いばかりの主に仕える気など毛頭ない。  感動のせいか、それとも安《あんど》堵のせいか、目尻《め じり》に涙《なみだ》をためながら主に握手《あくしゅ》を求めるアルスに対し、主はずっと笑顔で対処していた。  その様はまるで本当の聖女のようであり、人の役に立てることを無上の喜びとするかのようであった。  我輩、犬でありながらそんな崇高《すうこう》な主の姿に心打たれていたのであるが、主はむせび泣くアルスを軽く抱《だ》きしめながら、ふと、こちらを向いて苦笑した。  またやっちゃった。  そんな表情だ。  我輩《わがはい》の尻尾《しっぽ》が大きく揺《ゆ》れたのは、そんな主《あるじ》が大好きだからであった。  言うは易《やす》し、行うは難《かた》し。  至極《し ごく》当たり前なことではあるが、それは助司祭になる、ということも当然|含《ふく》まれていたようである。  主がそのことを考えていたかどうか。  夜|遅《おそ》くになってから、ようやく宿に帰ってきた時には、蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに照らされて鰊《ニシン》の干物《ひ もの》かと思ったくらいである。 「……うう……疲《つか》れた」  そんな言葉を残して、我輩がのんびり寝《ね》そべっているのにも構わずベッドに倒《たお》れ込む。  間一髪《かんいっぱつ》のところで直撃《ちょくげき》は逃《のが》れたのであるが、疲れるとその分、主の性格は悪くなる。  いや、表現が悪いのであれば、幼子《おさなご》のようになる、と言ってもいい。  なんにせよ、にゅっと伸《の》びた主の両|腕《うで》に、我輩は無策にも捕《つか》まってしまったのである。 「エネク、疲れた……」  そんなにして我輩の毛皮でも剥《は》いでなめすのだろうか、というくらいに乱暴に頭を揉《も》みしだき、我輩のことなどお構いなしに抱《だ》き寄せる。  正直苦しいのであるが、我輩の喉元《のどもと》のふかふかの毛に顔を埋《うず》める主からは、つんとするインクの匂《にお》いが立ち上ってくる。  リュビンハイゲンでは教会で雑用を請《う》け負っていた、などと言って誤魔化《ご ま か》した主であるが、知っているのは通《とお》り一遍《いつぺん》の祈《いの》りの文句だけである。そこのところだけはおとなしく白状をすると、アルスと、ジョゼッペらの介護《かいご》をする女たちは顔を見合わせてからうなずいた。  その後のことは我輩も断片しか知らぬ。  町の職人や商人たちの組合には、それぞれ独自に崇拝《すうはい》する聖人というものがあるらしく、普段《ふ だん》の祈りの儀式《ぎ しき》などは組合ごとにやり、組合長が司祭の代わりとなってやるらしい。  そういうわけで、ジョゼッペが目を覚ますまでは彼ら組合長が呼ばれ、ああでもないこうでもないと一通りの祈りや儀式の作法を叩《たた》き込まれることとなった。  加えて、主の識字力である。  主は文字は読めるのだが、書くのは苦手とのことだった。我輩は当然文字など読めないので偉《えら》そうなことは言えないのであるが、主はお世辞にも文字がうまいとは言えないらしく、試《ため》しに書いてみせたら応援《おうえん》に駆《か》けつけてきたローエン商業組合とやらの商館の主アマンも、苦笑いであった。  時折羊飼いの杖《つえ》の先端《せんたん》で地面に文字を書いては練習していた主《あるじ》ではあるが、とても不十分であったらしい。羊や犬の絵はうまかったのであるが、残念なことである。  そんなわけで、主は即席《そくせき》の助司祭となるべく聖堂で徹底《てってい》的に文字だの祈《いの》りの所作だのを叩《たた》き込まれることとなった。  我輩《わがはい》は途中《とちゅう》まで主の側《そば》にいたのであるが、我輩がいると主がつい我輩に助けを求めてしまい気が散るということで、早々に追い出されてしまった。その時の主の情けない顔といったらない。我輩としても主を一人にしておくのは不安だったのであるが、致《いた》し方《かた》ない。心を鬼《おに》にして、抱《だ》きかかえられるままに、宿に運ばれたのである。  そして、今である。  ようやく我輩の喉元《のどもと》から顔を上げた主は、ごろんとベッドの上に仰向《あおむ》けになって、大きく伸《の》びをした。  枯《か》れ木《き》を踏《ふ》むようなよい音がする。  我輩が手に鼻を寄せれば、文字|盤《ばん》に塗《ぬ》った蝋《ろう》のものであろう、ほのかに甘い匂《にお》いがした。 「エネクはいいよね、気楽で」  すんすんと手の匂いを嗅《か》いで軽くなめていたら、そんなことを言われてしまった。  疲《つか》れた主は、いつも意地悪である。 「明日は契約《けいやく》交渉《こうしょう》の骨子《こっし》と、本当に教会の人間か聞かれた時のための受け答えの暗誦《あんしょう》とかしないといけないんだって……。できるのかな……今日やったことだって覚えてるかわからないのに……」  主に意地悪を言われたせいで尻尾《しっぽ》がたれてしまったのであるが、ぼんやりと、不安げにそんなことを言う主の姿を見てはしょげてばかりもいられない。我輩が騎士《きし》であるならば、こういう時にこそ、主の支えにならなければならないからである。 「ん……ふふ。そうだよね、大丈夫《だいじょうぶ》だよね」  インクと蝋の匂いに取り巻かれていても、さすがに髪《かみ》の毛の中に鼻先を突《つ》っ込めばいつもの主の匂いがする。我輩がわざとらしく鼻を鳴らしてじゃれつけば、主も目を閉じて子供のようにやり返してくる。  幾度《いくど》となく繰《く》り返してきたことである。  主がひとしきりじゃれてから、ぱたりと手を止めるのも、いつものことであった。  諸々《もろもろ》の雑念を全部かき回し、窓から捨ててしまったような、そんなすっきりとした顔である。 「夢はまた逃《に》げちゃったけどね。町の人の役に立てるなら、頑張《がんば》らないと」  主は言って、我輩のことをきょろりと見る。  そんな時の主の目は、優《やさ》しくも強い、羊飼いの瞳《ひとみ》であった。 「それに、すっごいたくさん謝られたし、感謝されちゃった。悲しんだり落ち込んだりしてる暇《ひま》なんてないくらいに」  主《あるじ》はくすぐったそうに笑い、我輩《わがはい》の右|前脚《まえあし》の足先を軽く掴《つか》む。  特になにをするわけでもなく、指で足先をもてあそんでいる。 「アマンさんからは、うちの組合で働かないか、なんてことも言われちゃった。たくさんの町につながりがあるから、そこでどうかってさ。そしたら、他《ほか》の人たちも協力するよって言ってくれてさ……」  喋《しゃべ》りながら主の目はゆっくりと閉じられて、自分の言葉一つ一つに頬《ほお》をくすぐられるような顔をしていた。それは暑い夏の日に、通り雨にわざと打たれている時のような顔であった。  主の弱点は、誰《だれ》かに必要とされると弱い、ということである。頼《たの》まれると、特に弱い。  我輩が見る限り、主はいつどこでも必要とされない身分であった。金も、教養も、力も、なにもないただの娘《むすめ》であったのだから致《いた》し方《かた》のないこととはいえ、それは羊飼いとしての力を十分に蓄《たくわ》えてからも変わらなかった。  だから、いつぞやの行商人と狼《オオカミ》との取引もそうであった。  主は自分がいかに危険な取引に首を突《つ》っ込んでいるのか十分に把握《は あく》していたのではあるが、あの行商人がいかに自分のことを必要としているか、ということをひどく気にかけていた。  自分の利益だけでは、あんな思いきったことはできぬ。  もっとも、途中《とちゅう》、大金に目が眩《くら》みかけたようなところはあったのであるが、我輩はそれに失望するというよりも、なんだか少しほっとしたくらいである。 「もしも全《すべ》てがうまくいったら、そのまま正式な助司祭になったらどうだ、なんて言われちゃったし」  我輩が、我輩の足を掴む主の手からふと顔を上げたのは、その言葉が聞き捨てならなかったからである。 「私もそんなことしていいのかわからないけど……前例はあるみたいだし……。でも、ね……」  主は言って、我輩に苦笑いを向ける。  我輩からすれば苦々しいほど教会に対して従順でありながら、やはり純粋《じゅんすい》で真っ白な気持ちを持っている、というわけではないらしい。  いささか冗談《じょうだん》が過ぎている、といったような顔をして、我輩の前脚を引っ張って、自分の口元に寄せた。 「できれば仕立て職人になりたいなって。贅沢《ぜいたく》、なのかな」  我輩は、ぎゅ、と前脚に力を込める。  我輩の白い毛に覆《おお》われた前脚に押され、主の口元が変なふうに歪《ゆが》む。  それは怒《おこ》っているようであり、笑っているようであり、すねているようであり。  主は目を閉じる。  直後には、いたずらめいて口をぐわっと開き、我輩の生意気な前脚に噛《か》みつこうとした。  我輩《わがはい》は脚《あし》を引き、主《あるじ》はそれを逃《に》がすまいと体を起こし、上下逆に入れ替《か》わろうとした頃合《ころあい》であった。  扉《とびら》が控《ひか》え目《め》に、ノックされた。 「は、はい!」  主は答え、どういうわけか我輩がいたずら小僧《こ ぞう》であったかのように我輩の頭を小突《こづ》き、服を直してベッドから立ち上がる。  扉の向こうから聞こえた声は、アルスのものであった。 「遅《おそ》いのにごめん」 「いえ……」  主は答えつつ、扉の向こうにいたアルスを上から下まで眺《なが》めることになった。  アルスの様子は、こんな夜|遅《おそ》くの訪問にしては、やや変わっていた。 「眠《ねむ》いだろうけど、ちょっとだけ時間をちょうだい。中、いい?」  そんな言葉に主はうなずき、体を引いてアルスを部屋の中に入れた。  アルスが両|腕《うで》一杯《いっぱい》に荷物を抱《かか》えたまま入ると、後ろ手に扉を閉めて、やはりぼんやりとアルスの様子を眺めている。  我輩《わがはい》もベッドから下りて、アルスの周りをうろうろとする。  なにをするつもりなのか。  蝋燭《ろうそく》に照らされたアルスの顔は、濃《こ》い陰影《いんえい》を作りつつも日中に見せたような胡乱《う ろん》さはどこにも見当たらない。それどころか、我輩も驚《おどろ》いてしまうくらい、活力に満ちていた。 「今しがたまでカレカ様のお屋敷《や しき》に行っててね、かき集めてきたんだ」 「かき、集めて?」 「そう。これをね」  言って、アルスは大きな一枚布をばさりと広げて主に向けて掲《かか》げた。  綺麗《き れい》な、真っ白い布であった。 「これで、司祭服を仕立てられる。上等な布だよ。本当なら親方なんかが使う……ああ、今は私だった。まあ、それくらいの布さ」  アルスは言って、目を細めて慈《いつく》しむように布を見下ろしている。  たかが一枚の布なれど、その綺麗さも相まって、ただ広げているだけで、すでにたっぷりと余韻《よ いん》を持った司祭服に見えてくるから不思議である。 「本当は、カレカ様のお屋敷のテーブルに掛《か》ける布なんだけどね」  主はちょっと驚いて、我輩もすんすんと鼻を鳴らしてみると、なるほど、魚と芥子《カラシ》種の匂《にお》いがほんのりとした。 「仕立てるのに時間がないからね。今日中に大きさを測らないといけなくて」  アルスは大きな布を手なれた手つきで綺麗にたたみ、抱えてきた荷物の中から途中《とちゅう》にいくつか結び目のついた細い縄《なわ》を取り出した。  どうやら、それで主の体型を測定するらしい。色々な方法があるものである。 「時間があればちょっとずつ合わせるんだけどね。今回は間に合わせだから……もちろん、本当に助司祭様になる時は、カレカ様のお屋敷《や しき》のテーブル布なんかじゃなくて、きちんとした布で作るしね」  主《あるじ》を立たせ、てきぱきと手足の長さや体の大きさを測っていくアルスは、そんなことを言っていたずらっぽく笑う。  主はくすぐったがりなので測定そのもののせいもあるだろうが、やはりくすくすと笑っている。きっと、自分が貴族の家のテーブルに掛《か》かっている布でもって司祭服を仕立ててもらうなどと、数日前にはまったく予測もつかなかったことをされているのが楽しいのであろう。  世の中の巡《めぐ》り合《あ》わせというものは、真《まこと》に不思議であった。  それからどのくらい間を置いた頃《ころ》であろうか。  ふと、アルスが口を開いたのである。 「どうして、服の仕立て職人に?」  なんとも真正面からの質問であるが、主もそれに劣《おと》らないほど、まっすぐに正面を向いたまま、答えた。 「綺麗《き れい》な服を着るのは難しそうだったので、せめて作ってみたいな、と思ったんです」  アルスは主の体をくるくる回転させながら測っていたのであるが、その言葉のあと、主を自分のほうに向かせたのは、ちょっとしたいたずらだったのかもしれぬ。 「ふふ。綺麗な服の仕立ては難しいからね。最初はむさくるしいおっさんたちの作業着からだよ」  意地悪げな言葉に、主は律儀《りちぎ》に驚《おどろ》いている。 「それどころか、徒弟期間はまともに針も触《さわ》らせてもらえない。うちの組合規則だと、仕立て職人の徒弟期間はおおよそ六年。最初の一年は仕事場の掃除《そうじ》。次の一年で、道具の手入れ。三年目で初めて針と鋏《はさみ》を触らせてもらっても、まだ布は縫《ぬ》えない。せいぜい端切《はぎ》れで練習ね。四年目でようやく服らしい服を縫い始めて、五年目でちょっとした服を一から作ることができる。もちろん、六年目の徒弟|修了《しゅうりょう》試験に合格しても、まだまだ先は長い。親方が……先代の親方が、町の娘《むすめ》の結婚式用の服を仕立てたのは、弟子入りしてから十二年後だったってさ」  最後に、ぎゅっと強めに測ったのは、主の懸念《け ねん》する胸の部分であった。  ただし、結び目を数える時はちょっと緩《ゆる》めに数えていたのを我輩《わがはい》は見|逃《のが》さない。  それが最初からそういう仕様なのか、はたまた成長を見|越《こ》してか、あるいは主にかけた慈悲《じひ》なのかまではわからぬのであるが。 「十二年……」  主は呟《つぶや》きながら、指折り数えていく。  我輩《わがはい》と出会ってからこれまでよりも、さらにずっと長い時間である。  まず間違《ま ちが》いなく我輩は生きていないであろう。 「ま、私だってそんなに修行してないのに、司祭服なんか作ろうとしてるから。運もある」  そして、主《あるじ》はその運が若干《じゃっかん》足りなかったため、この町で仕立て職人になることを諦《あきら》めることになった。  アルスは使い古しの紙にあれこれ書き込んでから、顔を上げて申し訳なさそうに笑う。 「即席《そくせき》とはいえ司祭様になるんだから、この先きっと、神のご加護があると思うよ」  気休めである、と切り捨てられるような人間であれば、とっくにちゃっかり仕立て職人になれているはずである。  主はうなずき、「はい」と笑顔《え がお》で答えていた。 「時間があればね、工房《こうぼう》に来れば、少しくらいは教えるよ」 「え?」 「その服、自分で縫《ぬ》ってるんだろ。ひどいものだけど」  アルスは主の服を指差して、言う。  慌《あわ》てたところで無数の縫い跡《あと》が隠《かく》せるわけでもないのに、主は埃《ほこり》でも払《はら》うかのように服をはたいて、顔を赤くしてうつむいた。主としては珍《めずら》しく裁縫《さいほう》に自信のようなものを持っていたのであるが、世の中そんなものであろう。 「基礎《きそ》くらいは教えられる。私もまだまだ先代から教えて欲しいことがあったけどね」  テーブルの上で羽根ペンを動かすアルスの様子は、立派な仕立て職人のそれであった。  単にろくに食べていないせいもあるのであろうが、線の細さはその禁欲さを表し、ともすれば胡乱《う ろん》げに見える目は揺《ゆ》らぎなく布を見るための独特の目つきに見える。  若い女職人、という表現に。相応《ふさわ》しい様子であった。 「……ぜひ、お願いします」  主の言葉に、アルスは恥《は》ずかしげに目を細めて、「ん」と答えた。 「あとは、あれも教えられるかな」 「あれ?」 「そう」  と、言いながらアルスは荷物を片づけ始めた。  そろそろいい時間である。  さしもの我輩《わがはい》も眠気《ねむけ》が堪《こら》えられず、大きな欠伸《あくび》をしてしまう。  なので、続けられた言葉はまるで我輩の大口の中に放《ほう》り込まれたような感じがした。 「宿の女将《おかみ》さんから聞いたよ。調子っ外れの職人歌を歌ってたって」  ぐふ、と我輩の喉《のど》から変な鳴き声が漏《も》れ出てしまった。  我輩が人であったなら、間違いなく腹を抱《かか》えて笑うところである。  アルスもにやにやと笑い、主《あるじ》だけが、蟻燭《ろうそく》の橙《だいだい》色の光に照らされてなおわかるくらいに、真っ赤な顔をして体を強張《こわば》らせていた。 「あ、あ、あの、それ、は」 「ははは、もう夜も遅《おそ》いからあれだけど、きちんと教えてあげるよ。徒弟の一年目は、嫌《いや》でも歌わされるんだ。私なんか、町の広場のど真ん中で歌わされてね」  布やらなにやらをまとめて抱《かか》え、アルスは懐《なつ》かしそうに言う。  主は恥《は》ずかしさのあまり目尻《めじり》に涙《なみだ》まで浮かんでいるのであるが、その表情は、嬉《うれ》しさも多分にまじっている。 「ただ、代わりにさ」  と、アルスは尻尾《しっぽ》がばたばた踊《おど》っている我輩《わがはい》の脇腹《わきばら》を足先で突《つ》ついてから、言った。 「羊飼いの歌、教えてよ」  我輩、起き上がるよりも早くに主に視線を向けていた。  主の顔は凍《こお》りついたように強張って、それから、視線が壁《かべ》に立てかけられたままの特徴《とくちょう》的な杖《つえ》に向けられた。  旅に必要な杖、と言い張ることもできなくはない。  それでも、主はアルスに視線を戻《もど》して、震《ふる》える唇《くちびる》をどうにか解こうとした。  先に口を開いたのは、うっすら笑ったままの、アルスであった。 「ヨアンに聞いたんだよ。あいつも、金貸しにしかなれないような先祖伝来の忌《い》み嫌《きら》われた血筋だからね。すごく心配してた。ああ、そんな顔しなくてもいいよ」  アルスは、二歩、三歩、と主に近づいてから、耳打ちするかのような形で、囁《ささや》いた。 「私も、金貸しを旦那《だんな》にとろうかと思ってるくらいだから」 「っ」  次から次へとよくもまあそんなに表情が変わるものだと感心するくらいに主の顔が変わってから、それを楽しむようにアルスは目を細め、「それじゃあ」と扉《とびら》に向かって歩いていった。 「犬っころも、昨日、ごめんね」  我輩の名はエネクである。  一吼《ひとほ》えそう主張させてもらってから、アルスを見送った。  アルスが部屋を出ていくと、部屋には蝋燭《ろうそく》の燃える音だけが響《ひび》いていた。  我輩が主のことを振《ふ》り向けば、なんともいえぬ感情の入り乱れた表情のまま、両|頬《ほお》に手を当てて立ち尽《つ》くしていた。  何事にも動じない助司祭になるには、今しばし、鍛錬《たんれん》が必要な様子である。  我輩が主の足元に擦《す》り寄って腰を下ろすと、主は両頬を押さえたまま、我輩のことを見下ろした。 「旦那さんだって」  興味の矛先《ほこさき》はそこらしい。  我輩《わがはい》は若干《じゃっかん》呆《あき》れながらも、人の娘《むすめ》らしくてよきことかな、と思ったのである。  宿の女将《おかみ》が朝食と共に持ってきたのは、使い込まれた聖典であった。  どうやらジョゼッペが昨晩のうちに目を覚ましたらしく、書置《かきお》きを残していたらしい。体調が優《すぐ》れなく、昼過ぎには起きるつもりだということで、それまでに暗誦《あんしょう》すべき祈《いの》りの箇所《か しょ》に布の切《き》れ端《はし》が挟《はさ》まっていた。  町の中では大変な贅沢《ぜいたく》に当たる朝食を出してくれたのがジョゼッペを助けたことへの感謝の証《あかし》ならば、今日の朝食が再び小麦パンに戻《もど》ったのは町の願いを受け入れる決意をしたことへの感謝の表れであろう。  我輩もそのおこぼれに与《あずか》ったのであるが、主《あるじ》からはまた意地悪な言葉を頂戴《ちょうだい》してしまった。  確かに我輩が実際になにかを覚えたりするわけではないのであるが、そんな主の支えになっているということだけは自信を持って言える。  土台を支える騎士《きし》は、いつだって楽をしているように思われるのである。 「……おわします。なぜなら神は……」  と、ぶつぶつ繰《く》り返す主の片足は、サンダルを脱《ぬ》いで我輩の背をずっと撫《な》でている。  間違《ま ちが》えると我輩の毛を足の指で挟《はさ》んで引っ張り、ようやく覚えて次の新しい箇所《か しょ》に進むと、ため息と共にぐいと我輩の横腹を意地悪く押してくる。  湖が綺麗《き れい》な水を湛《たた》えるには、底に泥《どろ》をためられるだけの深さがなければならぬ。  主の気がすむのであれば、我輩その泥を喜んで引っかぶる所存である。  しかし、主の勉強の妨《さまた》げをしてはならぬとひたすらにテーブルの下で伏《ふ》せて耐《た》える我輩を、誰《だれ》かに褒《ほ》めてもらいたいところであった。  それに、時折耳の中に足の指を突《つ》っ込むのは勘弁《かんべん》願いたい。  そういった時にだけ、顔を上げて主の足の裏に冷たい鼻の先をくっつけてやった。 「……その栄光により……示されるのです。なぜならば……なぜならば……うー……」  思い出せない主のそんないきり声は、羊の出産に立ち会った時のようである。  ぽん、と音が出たかどうかは定かではないが、主はふっと体を起こして、こう言った。 「神の御心《みこころ》に従うからです!」  そのあとに答え合わせをして、どうやらきちんと暗誦できていたらしい。  主の足が我輩の背中を乱暴に撫でる。  主の集中力と能力は我輩が認めるところであるのだから、心配するだけ無駄《むだ》というものである。なにせ我輩と言葉が通じぬ仲なれど、わずかの期間であれだけの羊飼いとして成長したのである。単に書かれた文字を覚えることなど、それに比べればお手のものであろう。 「うー……最初のほうきちんと覚えてるか不安だけど……うん。意外に覚えられるものなんだね……ねえ、聞いてる? エネク」  主《あるじ》がテーブルの下を覗《のぞ》き込んできたので、我輩《わがはい》は仕方なく体を起こしテーブルの下から這《は》い出して、主の側《そば》に腰《こし》を下ろす。  主は珍《めずら》しく得意げな顔をしながら我輩の頭を撫《な》で、こう言った。 「エネクも言葉の一つくらい覚えられないの?」  我輩は一|匹《ぴき》の騎士《きし》であり、騎士に言葉など不要なのである。  そっぽを向くと、主は自慢《じ まん》したがりの子供のように鼻からため息をついて、我輩の頭を小馬鹿《こ ば か 》にするように撫でた。  どこから怒《おこ》るべきか迷うところであるが、こんなに無邪気《む じゃき》な主は久しぶりである。  我輩は心が広いので、鷹揚《おうよう》に構えておくことにした。 「あ、そういえば今って何時くらいなんだろう」  木窓は開けられているものの、住みなれた羊小屋ならともかく慣れない部屋では光の加減でとっさに時間がわからない。主はテーブルから立ち上がり、窓から顔を出して空を見上げていた。  その姿が新鮮《しんせん》だったのは、これまで主が町の中で空を見上げることがあるとすれば、それは藁《わら》が乱雑に積まれ、鼠《ネズミ》や鶏《ニワトリ》が平気で闊歩《かっぽ》する羊小屋で、熱病に浮かされた病人のように横たわりながらだったからである。  そして、高い場所にあけられたわずかな採光用の窓の先に空を見て、そこから時間を推《お》し量っていた。そういう時、主の顔は達観しているような、絶望しているような、見ていて胸の痛む表情であった。  それに比べれば今の状況《じょうきょう》のなんという幸福そうなことか。  誰か見知った者が眼下の通りを通ったのか、主は手を振《ふ》り返していた。 「そろそろ行かないと。エネク!」  我輩は一声|吼《ほ》えて、扉《とびら》の前で待機する。  主は慌《あわ》ててあれこれ準備して、ほとんど反射的にある場所に目を向けていた。  壁《かべ》に立てかけられた、鐘《かね》の外された杖《つえ》である。  主はそれを見て、動きを止める。  その横顔は、寂《さび》しそうであり、悲しそうであり、ある種の罪悪感すら感じられた。  その杖のせいで主は町の中でひどい目に遭《あ》ってきた。それでも、主がこれまですがってきたのもまた、この杖なのである。  我輩は心配になって、扉の前から腰を浮かしかけた。  しかし、そうしなかったのは、主がこちらを振り向き、恥《は》ずかしげに笑ったからである。  我輩らは前に進まなければならない。  その際には、捨てなければならぬものもあろう。  その時に我輩《わがはい》らがするべきは、悲しんだり、罪悪感を感じたり、ましてや古いものにすがりつくことでもない。  唯《ただ》一つ、感謝をすればいいのである。  主《あるじ》の手が我輩の頭を撫《な》で、我輩は一つ吼《ほ》えておく。  主と我輩は、未知なる世界での一歩を踏《ふ》み出すべく、宿の扉《とびら》を開けたのであった。 [#地付き]終わり [#改ページ]  あとがき  お久しぶりです。支倉凍砂《はせくらいすな》です。十三巻目です。短編集です。本編の続きを待ってくれていた方、申し訳ありません。ですが、ノーラファンの方には、お待たせしました。書き下ろしはノーラのお話です。ロレンスたちと別れたあとの後日談になります。エネクが大変けしからんことになっています。けしからん!  ノーラは書いていて、キャラが非常に淡泊《たんぱく》というか、不幸タイプというか、盛り上がらないんですよね……。苦肉の策で、エネクにけしからんことになってもらいました。  他《ほか》の短編はいつもどおりのものです。違《ちが》うといえば、一つだけホロ視点のものがあります。雑誌『電撃《でんげき》マ王《おう》』の付録|冊子《さっし》に収録された短編です。楽しんでいただければと思います。  ところで、今年の夏はたくさん遊びました。毎年夏が終わると、ああ今年も遊ばなかった、と後悔《こうかい》するので、ちょっと無理してでも予定を詰《つ》め込みました。まず、七月末にはダイビングのライセンスを伊豆《いず》で取り、八月|頭《あたま》はサイン会で香港《ホンコン》に呼ばれたのをいいことに、予定を延長して結局五|泊《はく》してきました。月中にはコミケに行き、月後半は北海道の富良野《ふらの》に三泊してきました。そして、今このあとがきを書いている一週間前には、一泊してダイビングに行ってきました。ちょこちょこやってたギターのほうも、一ヶ月半をかけてようやく一曲|弾《ひ》けるようになりました。  改めて書き出してみると、すごい遊んでいる気がしてきました。  すみません、仕事します!  仕事といえば、狼《オオカミ》も二期目のアニメが終わり、いよいよ終盤《しゅうばん》戦です。短編はともかく、本編はあとどのくらい出るかなあ、と数えるとちょっと感慨《かんがい》深いです。けれども一生書き続けるわけにはいかないので、次の作品の準備も実は始めています。  内容はまだまだ秘密ですが、あっと言わせられればと思います。  というわけで、次は本編に戻《もど》るはずです! 予定どおりだと来年頭くらいかな。一年て早いですね。  それではまた、次巻でお会いしましょう。 [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ] 狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》�㈽ Side Colors㈽ 支倉《はせくら》凍砂《い すな》 [#ここから9字下げ]  発 行 二〇〇九年十一月十日 初版発行  発行者 高野 潔  発行所 株式会社アスキー・メディアワークス [#ここで字下げ終わり]